公開シンポジウム 「沖縄 今そこにある・今もそこにある/家族の危機・危機の家族」報告

公開シンポジウム
「沖縄 今そこにある・今もそこにある/家族の危機・危機の家族」

日時:2020年1月11日(土)14:00〜18:30 会場:アジア・アフリカ言語文化研究所・マルチメディアセミナー室(306)

※本ページは、当日の録音の文字起こしに基づいていますが、要旨のみを掲載している部分もあります。
※本ページに掲載されている文章・画像・リンク先ファイルについて、無断での転載を固く禁じます。

【プログラム】

※それぞれリンク先に本文およびレジュメや要旨のリンクがあります。
開会挨拶:深澤 秀夫(AA研)
発表1:「家族とオガミとトイレ」村松彰子(相模女子大学)
発表2:「ヤーニンジュの変容と危機の家族:戦争体験と記憶伝承」山内健治 (明治大学)
発表3:「奄美大島における人口減少と家族」石川雅信(明治大学)
発表4:「高齢者をケアしているのは誰か:地域福祉の現場に見る家族の諸相」加賀谷真梨(新潟大学)
コメント1:國弘暁子(早稲田大学)
コメント2:四條真也(首都大学東京)
全体討論

開会挨拶 深澤 秀夫(AA研)

 定刻になりましたので、本日の公開シンポジウム「沖縄 今そこにある・今もそこにある/家族の危機・危機の家族」を始めたいと思います。はじめに、私はAA研の深澤でございます。一応このシンポジウムを企画した人間として、今日の公開シンポジウムの趣旨について、簡単に説明させていただきます。
 現在の「家族」とそれをめぐる状況ということに関していろいろな問題が指摘され、様々な分野においてそれについて論じられています。それらを背景に、「危機と家族」という視点からシンポジウムを開催したいと考えました。特にこのシンポジウムの主催であるAA研の基幹研究、人類学専攻を中心に進められてきた「アジア・アフリカにおけるハザードに対する『在来知』の可能性の研究」、それから、西井さんが研究代表者として行われている科研費の基盤A「人類学的フィールドワークを通じた情動研究の新展開:危機を中心に」という主題に沿って、このシンポジウムを企画したということになります。
 「家族」ということを論ずる際に常に問題として立ち現れる「家族とは何か?」という定義をめぐる議論から始めると、「普遍的な家族の定義は可能か否か?」という人類学における長い歴史をもつ議論に巻き込まれるとことになりますので、一応ここでは「家族」とは、沖縄地域を対象にした場合には、沖縄の言葉によって例えば「ヤーニンジュ」であるとか、奄美であれば「ヤーニンテ」であるとか、そういった民俗語彙によって指示される対象を扱うということにとどめておきたいと思います。とは言え、殊更に「沖縄」という地域を焦点化するわけではなく、あくまでも「家族」を論じる際の一事例を提供する地域として対象化しています。
 個人的には恐らく家族問題というのは、「家族の普遍的な定義」については、その構成員等の視点からは定義不能であり、「内」と「外」、特に「ドメスティック 家内的」と「パブリック 公的」二つの領域の対立として語らざるを得ないのではないかと思っておりますけれども、今日はここではそのことについてこれ以上は述べません。それよりもむしろ沖縄、この場合は奄美まで含めますけれども、そこにおいて展開されているさまざまな家族の相貌、特に「家族をめぐる危機」と「危機をめぐる家族」の二相について、発表者の皆さま、コメンテーター、そしてここにお集まりいただいている皆さまとなるべく豊かな情報交換と議論をすることを目指したいと思います。
 それでは、今日のプログラムの全体の構成について述べさせて頂きますと、最初に村松彰子先生の「家族とオガミとトイレ」、次に山内先生に「ヤーニンジュの変容と危機の家族:戦争体験と記憶伝承」を続けてご発表いただいた後で、休憩を入れます。引き続いて、石川先生の「奄美大島における人口減少と家族」、それから加賀谷先生の「高齢者をケアしているのは誰か:地域福祉の現場に見る家族の諸相」までのご発表を終えた後、少しまた休憩をはさんで、その後、國弘先生と四條先生にコメントを入れて頂いた後、引き続き全体討論に移りたいと考えております。
 それでは、村松彰子先生、「家族とオガミとトイレ」という題目でのお話をよろしくお願い申し上げます。

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「家族とオガミとトイレ」 村松 彰子(相模女子大学)

 皆さん、こんにちは。相模女子大学の村松彰子と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。このような機会を与えてくださいまして、深澤先生、ご準備くださった皆様ありがとうございます。
 今回のシンポジウムが「家族の危機・危機の家族/今そこにある・今もそこにある」というタイトルでのご依頼を受けまして、私にどんなお話ができるのかなと考えたのですけれども、そこでトイレをめぐるある家族の物語といったようなものを皆さんと共有させていただきたいなと思って用意をしてまいりました。
 私自身が沖縄に行き始めたのは1998年の大学3年生のときからなのですが、卒論のために紅型という琉球王朝時代に歴史をさかのぼるといわれる染物をめぐる文化について学びたいというのが初発の関心としてありました。何もわからないまま職人さんの所へ出入りさせていただきまして、初めは紅型という染め物の技法や作り手の語りについての情報を得るだけで精一杯だったのですけれども、そのうち職人さんたちの伝統観ですとか、紅型を通して語られる「沖縄らしさ」について話を聞かせていただくようになりました。
 夏休み、春休みなど限られた回数でも、行き来しているうちに「沖縄の文化について関心があるなら、ご飯を食べていきなさい」といっていただいたり、家の行事に一緒に参加させてもらったり、沖縄はクリスチャンの方も多いために一緒に教会に行こうという形でクリスチャンとして生きる人たちのところで話を聞かせてもらったりするうちに、暮らしぶりや信仰はさまざまに沖縄の家族の問題を耳にするようになっていきました。
 日々の困り事や苦悩にどのように対応するのか。たとえば心身の痛みとか家族の問題に対応する場合に、いわゆる先祖などの超自然的な存在に対して関心を向けて問題の解決を試みるという世界観があることについては、先行研究では知っておりましたけれども、具体的にそういった問題と結びつくというような言動を見聞きするようになりまして、実際に沖縄で自分が関わる方たちとの関係性の中でそうした話を聞かせてもらうようになっていきました。たとえば心身に問題があったときに、病院にも行くけど、ユタヌヤーにも行くというようなことです。クリスチャンの方たちのなかにもかつてはすごくユタコーヤーしていたけれども今ではクリスチャンとして生きているという話も珍しくはありませんでした。どんな職業であれ、生きていく上での問題、お金の問題とか跡取りの問題とかDVとか、非行とか引きこもりなどがいろいろ起きるのは当たり前のことではあるのですけれども、「紅型をめぐる物質文化について学ぶ」と杓子定規に考えて沖縄へ通っていた私からすると、紅型をきっかけとしながらも沖縄の人びとの暮らしが少しずつ感じられるようになっていった時期だったのかなと考えています。
 私が出入りさせていただいていたのは沖縄本島の那覇市や宜野湾市を中心とする地域に暮らす人びとのもとでした。ですから、当然のことながら現代医療も備えられていますが、心身に問題を抱えたときに病院に治療に通ったり、カウンセリングに通ったりするのは十分に可能な一方で、沖縄の世界観のなかで宗教的な職能者のちからを必要とする人びとがいること、その両方が成り立っているあり方に次第に関心を持つようになりました。
 本日のシンポジウムのテーマにおいても、家族の問題というのは一概に定義できないと先ほど深澤先生がおっしゃっていましたけれども、私にはその定義は手に余ることですので、私の本日の報告の中では、沖縄の私が話を伺った方たちが語る家族について、具体的には本人の配偶者だったり、その子どもたちだったり、姻族を含めた親戚だったりという今生きている人たちのほか、祖先とか、生まれてこられなかった子どもたち、何らかの理由で亡くなったり、中絶したりということで亡くなった子どもたちを含めた死者、あるいはこれから生まれてくるような子孫、そういう人たちを含めて家族とさせていただきたいと思います。

※以下スライド併用(「#」はスライド番号ですが、本サイトでは当発表のスライドを掲載していません)

#2
 お配りした資料にあるエピソードですが、そのようにして沖縄に通う中、20代、30代の人たちが集まったあるビーチパーティーで平良さんという女性から次のような話をききました。
 平良さんの叔母家族が中古の家を買ったときのことです。家を買ったという話を知った祖母(叔母の母親、同居していない)が、宗教的職能者である「ユタ」の所へ相談に行ったところ、「その家の相が悪いと先祖が言っていて、このまま入居しては家族に何か起こる」と言われてしまった。祖母は叔母に知らせないまま、慌てて「ユタ」に拝ませると玄関の方角を変えれば問題がないという見立てがあったので、大工を頼んで玄関の位置を変えて元の玄関は閉じてしまったという話でした。その後、叔母家族は玄関の位置が変えられたことを知って驚いて怒ったけれども、祖母はといえば、「おばあは家族を守るために当たり前のことをしただけ。何を怒っているのか、お礼を言いなさい」と言って母娘で言い合いとなって、関係が悪くなってしまったのだそうです。玄関の工事は済んでしまっているし、ほかの家族も特別「ユタ」は信じていないけど、何か起きても困るからと、出入りに不便で、見た目もおかしな所につくられた玄関からみんな出入りしているということでした。
 こうしたエピソードは何らかの形で沖縄に関わっている方たちだったら、沖縄の家族の問題に宗教的職能者が絡んだようないさかいを何らかのかたちで耳にされたことはあるのではないかと思います。超自然的な存在を前提とする職能者の見立てが現代の沖縄社会の中において力を持っていることが垣間見えます。本日は、さきのエピソードは笑い話になって語られてはいるけれども、当事者となる家族のあいだでどういう問題をはらんでいるのかということをここではみていきたいと思います。沖縄のある種の伝統的な民間信仰の担い手とされている宗教的な職能者のユタの見立てについては、依頼者とユタとの間ではある種の了解をえられて現実に玄関を動かしてしまうのだけれども、そのほかの家族の理解とはそれがまたずれてしまうことが多々みられるということです。そうした世界観のある種の枠組みというものを見ていくために、沖縄の民俗宗教の概況をよく知られてることではありますが、簡単に整理します。

#3
 沖縄の民俗宗教については、伝統的とされる「祖先崇拝」を重視している方が多いとはよく言われています。琉球新報では「県民意識調査」が5年に一度、2001年から行なわれているのですけれども、それによると祖先崇拝を「重視している」と答えている人たちは9割を超えており、従来の研究で指摘されていることが、今日の沖縄の暮らしにおいても同様であると言えそうです。そして、火の神様「ヒヌカン」と呼ばれるようなカマドに対する信仰が多く見られます。日常生活においては、「仏壇」やカマドの神を大切にしていることは、私がお会いいしている方たちをみても、都市部でも田舎でも、アパートでも一軒家でも見られます。
 その一方で、特定の宗派にこだわらないというような方たちも多いのは実感しています。それは法要に出席させていただくとよく感じるのですけれども、仏教の影響を受けて「仏壇」とか「位牌」とかいうものが取り入れられていますが、檀家になっている方々はほぼいらっしゃらないのです。そのため、弔いのためにだれに経を読んでもらうのか、七七法要をどうするかということも、「あのお寺の坊さんはお経がうまいと聞いたから」とか、家が近いからとか、安くやってくれると聞いたから七七法要は坊主を変えるなどと言ったことも聞きました。実際に葬式とその後の法要の宗派や寺が違うということを目の当たりにしたことも何度かありました。また、沖縄ではクリスチャン人口も多いとされています。那覇市内のある教会で、人口比で、日本全体では1%なのに対し、沖縄の場合は3%と聞きました。1回でも教会に来て名前を書いていった人をみんなクリスチャンとして数えているということも耳にしたので、数字の信ぴょう性はどこまであるのかわかりませんが、沖縄を車で走っていたり、歩いていたりすると、教会はあちこちで目にすることができます。
 そういう中で、年配の女性たちと行動を共にする機会がおおいと、人々のさまざまな悩みに応える宗教的職能者「ユタ」と呼ばれている人たちの存在が際立っていると感じられることがあります。文献上でもそのように指摘されていることが多いですけれども、琉球王朝時代ら宗教的職能者の存在は為政者からはたびたび問題とみなされ、人を惑わす存在として弾圧を受けてきた歴史があるにもかかわらず、求められる存在であるということも事実としてあるのかなと思います。こういう職能者の人たちはある種の専門家と言えるのではないかと思うのですけれども、「超自然的な存在と一般の人との介在者となっている」という指摘はよく知られたところです。

#4
 そうした沖縄の民間信仰の担い手である「ユタ」がシャーマンであるという指摘も問題がなかろうかと思うのですが、彼らが霊的な能力が高いという素養を持つというだけではなくて、心身の不調とか子どもの病気や何らかの大きな苦悩の経験から巫病に見舞われて、人によっては数年、あるいは数十年というような時間をかけてその災いの元をつきとめたり、あるいはそれを乗り越えるといった物語が作られていく過程の中で超自然的な存在とコンタクトが取れるようになっていくのもよく知られたことです。超自然的な存在とのコンタクトが取れるようになって自身の意識変容状態がコントロールできるようになるということ自体が、周りの人たちからの職能者として認められていき、自他ともに成巫したとみなされます。
 こうした物語化はある種のパターンを持っています。祖先崇拝を軸とする沖縄の民間信仰において、人助けといいますか、超自然的存在とクライアントとの介在者としての役割を専門家として果たす立場をつとめられるようになると、それが生業として成り立つほどの大きな信頼を受けるような方がいます。その多くの場合は女性であるということもよく知られています。 職能者自身が成巫課程で病んだり苦しんだあとに力を得たという経験から頼っていく相談者がいる一方で、社会の中ではすごく毛嫌いされたり、公的な関心の外の存在であるというような扱いを受けることもままあります。そのために沖縄でうまれ育ち、暮らす人びとのなかにも、「関わったことがない、関心がない」とか、「ユタというのは嘘つきで金儲けのための仕事なのだ」などということも聞かれます。
 けれども、こういうことをおっしゃっている方に個別にお話を聞いてみると、実はユタヌヤーに行ったことがあって大きな金額を使った経験があったりして、その方がそうした発言をする場がその人にとってどういう場なのかが問題となっている場合があります。立場上、「関心がない」とか「関わったことがない」とかと言うような方も多くいるように思います。このあたりはリタイアされている方かどうかとか、あるいは男性か女性かとか、そういったところとも密接に関わってくるのかなと思っております。

#5
 一般的にどういうふうに言われているのかということも少したどっておきたいと思います。「沖縄県民意識調査」は、先ほども少し触れましたが、琉球新報社により行われている調査ですけれども、2001年から5年に一度、基本的には同じ設問の調査を実施することでその変容を分析する目的で行なわれています。
 「生活意識」と「人間関係」と「儀礼、習慣」と「郷土意識」と「文化意識」と「社会・政治意識」の6分野で構成されています。質問が行われた後、集計されて、その調査があった翌年の元旦の琉球新報に特集として報告されているので、恐らく皆さんもご覧になっているかと思うのですけれども、標本数は2000程度で、有効回答者は、回によっても違いますが、その半分ぐらいという調査になっています。

#6
 質問項目を参考までに挙げてみたのですけれども、先ほど六つの大きな領域がありますよということがあったのですが、2011年から30項目に増えるようになってちょっとずれたりもしていますけれども、私が今回の報告に即して関連していると思うのは、質問の4番、10番、11番、12番、13番、その辺だと思っています。4番は「これまで生きがいとしてきたことは何か」ということですけれども、一番多い回答が「家族の幸せ」となっているということと、それに付随して、次のスライドとも話をつないでいきたいと思うのです。

#7
 幾つかデータを整理してみたのですけれども、これは2016年版で、一番新しいものなのですが、「大事な相談を誰としますか」という質問項目で、「親・子」と「配偶者」というのが多いです。一人につき三つまで回答できるので、それも加味して見ていただきたいのですけれども、答えの中で「親・子」と「配偶者」が約6割、「きょうだい」「友人関係」も約4割という形で、身近な人たちに大事な相談をしているというようなことがうかがえます。
 これは私がお話を聞かせてもらっている方たちともある部分一致しているなと思うのですけれども、ここで出てくる中では「医師」「弁護士」などの専門家に相談するというのは1.7%となっています。「誰に何を相談するのか」というときに身近な親とか子ども、配偶者、きょうだい、あるいは友人、同僚というようなところが出てきて、専門家には相談数が少ないということがうかがえるのかなと思います。しかしながら、何を相談するかというのはここではちょっと分からないので、大事な問題といっても何を大事と考えているかもいろいろあるのかなと思います。

#8
 さらにクエスチョン13番に「あなたはユタに悩みごとを相談しますか」というものがあるのですけれども、これは2001年の「沖縄県民意識調査」だから最初にされたときのものです。20代から70代までの方たちに質問をしたのがこちらのデータですが、、左側の黄色とオレンジになっているのが「よく相談する」と「たまに相談する」で、緑色が「あまり相談しない」で、水色が「全く相談しない」で、ちょっと紫が「分からない」となっています。上から20代、30代、40代、50代、60代、70代となっています。こう見ると、「あまり相談しない」と多くの方がどの年代でも回答していると統計上は言えます。

#9
 #8が2001年ですが、最新版の2016年はこのような割合になっています。「よく相談する」、「たまに相談する」というのはもちろん相変わらず少数で、「あまり相談しない」「全く相談しない」「分からない」という中では、「全く相談しない」「あまり相談しない」というところがやはり分量としてはすごく多いのかなと思うのです。でも、前の世代のところと比較すると、2001年では20代のときにはゼロとなっている「よく相談する」という人たちが、2016年になると、3%いらして、15年前は20代の人はまだ小さい子どもだったわけですから、それよりも上の世代の人たちを見るよりも割と顕著なのかなと思うのですけれども、「相談しない」とだけも言えないのかなと思います。
 結局のところ、その人がどういう文化的な背景をもつ家庭で育つのかという問題は大きいのだと思うのです。ですから、たまたま周りに相談をする方が多いようなおうちに生まれ育てば、もちろんそういう経験が馴染みのあるものとなります。私がお世話になっている宗教的職能者の方のおうちにも小さい子連れでいらしている方がものすごくよく見受けられます。それは多くの場合、女性たちが相談に訪れるということとも関わってはいるのですけれども、そういう意味では一概に少なくなっているとも言えないのかなと思います。ただし、少ないことは事実というようなデータがあります。

#10
 さらに、先ほどまでは年代だけで男女比がなかったのですけれども、出ているデータを探して男女比のあるところだけ拾ってきたのですが、2001年は「よく相談する」「たまに相談する」の合計は男性が16.5%、女性は21.8%です。それに対して2016年は男性が8.7%で、女性は24.2%です。2001年の方は「全く相談しない」「あまりしない」が合算されているのが78%なのですが、2016年の合算された数字は私が調べられる範囲にはなくて、「全くしない」のみ探せたのですけれども、それが68.5%です。だから、「あまりしない」も入れるともっと多くなるのではないかと思うのですが、いずれにしてもそれなりの数で男女では差が出てくる部分もあるのかなと思います。
 これは調査するのに、応答してくださった方の所に訪問してチェックをしていくというようなやり方をされているみたいなので、その話を聞いている場で他に誰かが同席していることがあったりするのかなとか、そんなところもちょっと気になることではありますが、一般的に女性の方が男性より相談に行く、年配者の方が若年者より相談に行く傾向にあるというのが言えるのだろうなと思います。あと、地域差があるということも言えます。統計上では「よく相談する」「たまに相談する」の合計が一番多いのが中部地域で、次いで宮古となっているようです。全体的に見ても、「ユタへの相談」というのは減っている現状にあると数字の上でも出ていますが、しかしながら、沖縄の伝統的な世界観の中でその必要性がなくなっているとまでは言えないのかなと思います。

#11
 先生方がご存じのことばかり並べていて申し訳ないのですけれども、そういった状況を踏まえて、一般的なデータも踏まえて、沖縄でユタの判断を仰いで、オガミ、あるいはオイノリと表現する人もいますけれども、それをするというのがどういうことなのかということをこれから少し考えていきたいと思います。
 これまで見てきましたように、「ユタは信じていない。でも」というようなところが沖縄でお話を聞いていると見えてくるところです。「身近な人が亡くなったときに口寄せしてもらったことがあるよ」と、クリスチャンの方たちでもユタのもとに行ったことがあるという経験も大きな数を占めているように私は聞き取りの中では感じています。あるいは家族のハチウンチ(初運勢)を見てもらいに毎年自分の家の年配の女性がユタの所に行っているという方がいます。
 これは私の研究の中でもしばしばみられるのですけれども、ご本人がユタコーヤーに行っていなくても、ご本人の分もその方のことを思うどなたかが、多くの場合は母親だったり、おばあさまだったりするのですが、あずかり知らない所で見てもらっているということはあるのかなと思います。だから、ああいう統計的なものに出てこない部分というのが話を聞かせてもらっていると感じられる部分ではあります。それは沖縄ではよく知られていることですが、年配の女性たちが家、あるいは家族を守るという役割を担っていると感じているという方も多いことと、最初の方の質問項目の中に「家族の幸せ」「生きがい」というものが一番に出てきたということもありますが、そことも接続できるのかなと感じます。
 こういう形で宗教的な職能者の「ユタ」の存在というのは、時に「沖縄のカウンセラーみたいなもの」と語られるように、悩みごとの相談相手、ある種の問題に対してはとてもふさわしい相談相手とみなされて、その苦悩や災いという問題の原因追及としてのある種の専門家としての判断とその解決のためのオガミがセットとなっていると言えるのだろうなと思います。
 私が拝見したり、聞かせてもらったりしている限り、その相談やオガミに発生する謝金というのでしょうか、お金は3000円程度から、オガミになると5万、10万という額まであります。何をどういうふうに見てもらったり、拝んでもらったりするかによっても変わってくるということですけれども、かなり幅は広いのかなと思います。一般的に相談に行く方の謝金の方は低くて、オガミに行ってもらうという、職能者自身を伴ってどこかにオガミに出かけるという方が高額になっています。日当みたいなものも含まれているのかなというような感じの額になっております。
 こういう状況を踏まえてですけれども、そのおうち、あるいはその家族をめぐってさまざまな問題というものが日常生活の中で起きるのですけれども、それを先祖と結びつけて理解するというような認識の仕方、あるいは謝金の額です。家1軒が建つぐらいユタに使ったという方もたまにいらして、お話を伺っていると、数十年にわたるオガミの話を聞いていると、実際に本当におうちが建つなというような方もいることを思うと、過度な謝金の支払い等をめぐって、ご本人だけではなくて、それ以外の身の回りの方たちと対立してしまうということは間々あるように感じます。

#12
 事例にたどり着くまですごく時間を使ってしまったのですが、ここからトイレをめぐる家族の話ということで、上原慶一さん(仮名、70代、二男)とそのご家族のことをお話ししたいと思います。今朝もこのおうちの方と電話をしてきたのですけれども、新しい情報といいますか、準備していたときとまたちょっと違った状況になってきたなということがありましたのでそれもできる範囲で付け加えながらお話ししていきます。
 この方は二男なのですけれども、上原家は上の世代の人たちも含めて、沖縄の伝統的な祖先崇拝を重視して、行事を大事にしている方です。それにもかかわらず、30年ほど前に慶一さんが40代の働き盛りに倒れてしまうというような状況があり、西洋医学的な治療のかたわらで、奥さんと娘の一人が熱心にユタ通いをすることで快復したのだそうです。暑いなか工事現場で働いていらしたそうなので、熱中症みたいな形で倒れられたのかなと思うのですが、ご本人がいらっしゃらない所で奥さまがお話ししてくださったことには、何を言っているのかわからなくなってしまい、しばらく精神科に入院するということがあったそうです。そもそもはユタの所に通うというようなことはしたことがなかったと奥さまはおっしゃっていますが、娘さんが心配して探してくれた所に通ってオガミを続けるうちに良くなったので、「あれ」の力はすごいと思うようになったとおっしゃっていました。
 そうした間に子どもたちが結婚したり、孫が生まれたりしているのですが、20年ほど前からは妻が体調不良になっています。最初はリウマチのようです。畑仕事とか、子育てとか、豚を養って売るとか、店の経営、親せきづきあいなど多くを一人でこなしていたにもかかわらず、行動が痛みで制限されて、次第に外出すら難しくなってしまったそうです。妻がだんだん動けなくなってしまうという最中、子どもががんでお亡くなりになるということも起きました。
 この娘の病気に端を発して、自宅の屋内のトイレを壊して外に作り直すということをされています。家は1980年代に建てられたコンクリート屋で、かつてトイレがあった所にはタンスなどが置かれているのです。初めてお邪魔した際に、何か不思議な間取りだなと思っていたら、それは娘さんの病気があったことによって中にあったトイレを外に出したということが後に分かりました。この時、ユタの見立てによって屋内のトイレを壊し、外に出すことにほかの家族の反対はなかったそうです。
 慶一さんの「ユタ通い」は、娘の病気平癒のためということもあり頻繁になって、支出もどんどん増え、一生懸命頑張って祈ったにもかかわらず娘をうしなうという結果となってしまいました。その後もユタ通いは続いていたようですが、いまから7年前、妻が、本土に子どもたちのもとへ出かけた先で倒れて意識不明になってしまったのでした。リウマチに加えて糖尿病をさらに患うことになってしまったうえに、慶一さん自身の病い、内臓の手術もすることになってしまったということで、家庭内の健康不安が大きくなっていました。妻の意識不明の際には一時危篤となって、本土までご本人が駆けつけたのですけれども、「これはご先祖様からの知らせ」として、すぐに沖縄に戻って判断を受けて、オガミを繰り返していました。「その祈りが通ったおかげでお母さんは助かったから、それはお父さんのおかげだ」といった発言は、娘の前や私(発表者)の前でもみられました。

#13
 そのさらに、3年前ですが、慶一さんの妻が自宅で転倒して骨折するということが起きました。リウマチも患っているので動きがなめらかではないのですが、気を付けていたのに玄関で転んでしまって、長期入院とリハビリということまで起き、慶一さんのユタ通いはまた頻繁になっていました。
 このとき、妻の退院に向けて介護保険を使って家中の手すり設置のほか、室内トイレの整備を周囲は試みるわけですけれども、慶一さんはトイレの基礎工事まですすめておきながら、オイノリの結果、神様の許可が下りないと言ってからというもの、オイノリにでかけるのに一生懸命で、トイレを仕上げないままでした。ブロックを積み、壁をつくる準備もしてあって、トイレの排水側の所まで行っているのだけど、そこから進まない。妻が安全に生活するためのトイレだから早く作るように説得するもうまくいかず、娘や息子たちと揉めていました。じつにその後7年に及んでトイレの建設は中断されて、室内のトイレではなければ安全に暮らせない妻は、住民票もうつし、娘の家で暮らすことになってしまったのでした。
 ところが、2019年の夏にたずねると室内トイレができていました。毎年、何か月かに1回の沖縄に行くたびに様子をうかがいにいくたびに「まだトイレをつくる許可が(カミサマから)でない」と言っていたのに、それが長年のオガミの結果、許可が神様から下りたといって、妻の部屋続きの所にトイレが完成していたのです。そうやって自宅が整うことによって、慶一さんは2019年12月の末に妻が自宅に戻り、同居を再開できました。こうしたトイレの設置をめぐる7年のあいだには、母親の介護や父親との意見の相違から子どもたちの仲が悪くなったり、親子がさらにもめたりしていたものの、ようやく家族間に落ち着きがみられるようになっていました。

#14
 こうした家族の災厄をめぐって自宅トイレの改装が何回か行われてきた上原家ですけれども、トイレでもめた一つの理由は沖縄で語られるトイレと魂との関わりにあるのだと思うのです。「マブヤー」と呼ばれる魂は、驚いた拍子に身体から離れてしまうというのですが、トイレからであれば本人らが呼び戻すことができるというような表現がされることがあります。慶一さんは、自宅トイレの位置が風水的にみて悪かったことが子どもをうしなったという悲しみに結びついていると考えていることもあり、トイレをどこにどのように備えるのかという問題というのはとても大きなことでした。そのため、たとえ妻が帰宅して安全に暮らせるようになるためだという家族の説得とか、医師とかソーシャルワーカーの説得によっても、簡単にトイレをふたたび屋内に設置するという考えに至らなかったのですが、それを後押ししてくれたのは、「カミサマからの許可」だったということでした。

#15
 上原家の間取りは、資料のように左下に玄関、入って居間、奥に台所、今の右手に一番座、さらに二番座となっており、沖縄の家でもよくある作りです。もともとあったトイレは赤字で示してある所、娘の病気をきっかっけに屋外に作り直したトイレは台所の横から裏側へ出ていった先にトイレが和式でありました。その後、妻はリウマチを患い、ひどくなるにつれて外への移動やしゃがむのが難しくなったために、寝室のベッドの横にポータブルトイレを置いていました。屋内トイレがポータブルだったらいいののかと慶一さんに聞くと、「いいさ。それはお水がつながっていないからいいさ」ということだったのですけれども、新しくできたトイレは寝室の隣のタンス置き場にできていました。妻の骨折のあと基礎まではできていた場所ではどうしてもカミサマの許可がおりなかったとのことでした。

#16
 家族を想うあまりに生じる<ずれ>ということで、家族の危機ということから、この上原家の問題をいま一度考えたいと思います。慶一さんは、家族に起きているさまざまな問題を祖先崇拝と結びつけていました。妻や子どもたち家族としては、慶一さんが家族の問題を取り除こうとしてユタと関わるようになっていることは認めてきました。同時にお金をすごくたくさん使い込んでしまっていることを心配し続けてもきました。いずれにしても慶一さんが家族の危機に立ち向かってきた/いるということは承知している。しかしながら、夢見とか身体の痛みとか、起きる出来事をことごとく「神様からのメッセージ」と受け取ってしまったり、オイノリ/オガミに数万単位をたびたび使ってしまったりという現実に戸惑いを見せていて、子どもたちが入れ代わり立ち代わり、じっくりと意見しようが、怒って意見しようが、聞き入れられずにいました。

#17
 それは家族にとっての<現実>と慶一さんの<現実>というものにずれがあるのでしょう。家族の問題を解決しようとオイノリに励んでいるのが分かってはいるのだけれども、それがむしろ家族、妻との問題や子どもたちとの問題をさらに抱えることになってしまっていることがうかがえます。職能者の表現に、カミサマに関わることは「過不足がないように」というものがあるが、そうした認識からいうと、慶一さんはご家族との間でも宗教的な職能者との間でもずれをみせることがままあるようです。

#18
 以上の話を家族というところから少しまとめてみたいとおもいます。最初は玄関を移してしまうというエピソードから話をはじめ、上原家のトイレの移設といった話へとつながっていきました。いずれにしても「ユタ」に相談した結果、かなり無理なことであっても、家族に悪いことが起こることへの警戒や災厄への対応として、家族への「想い」からきたこととしてある意味「仕方がない」こととして、トイレを動かす、あるいは玄関を閉じるということが、あいだでも受け入れられてはいます。
 しかし、「ユタ」を介した祖先崇拝をめぐる世界観というものが家族内にもめごとを起こしていることも、また事実だと言えます。ただ、その「もめごと」は、それ以前の子どもが亡くなるということや家族への災いによる危機に対処する過程として起きていることは、注視すべきではないでしょうか。祖先祭祀にかかわるもめごとが起きはているが、その「もめごと」を家族の危機と読むよりは、その危機に際しての「もめごと」が、家族への「想い」によるものなのだということをある種の<ずれ> とともに家族の側も「共有」できるものにしているのではないかと考えております。
 それは祖先祭祀や世界観の共有が家族を一つにまとめているというよりは、共有されていない現状において、家族の危機が祖先祭祀の言葉に伴なって表現されることで「もめごと」が発生していくということが頻繁に見られるのですが、そういった<ずれ>を伴う「想い」への共感が、ここでは「家族」をある意味つなぎとめているともいえるのではないでしょうか。まとまらないままですが、以上で私の報告を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

(深澤) 村松先生、ありがとうございました。最初に紹介しましたとおり、一応本シンポジウムは、奄美・沖縄の言語的・文化的・社会的内容についてある程度の基礎知識を持つ方を対象としています。発表者の方々、それからコメンテーターの四條さんについては、松村先生のお話の内容を大体理解できてしまうのですけれども、今日初めて奄美・沖縄についての話を聞かれた方の中で、村松先生の話に限ってこの点をちょっと説明してくれると分かりやすくなるのだけれどもということがありましたら、その点についてだけ質問を受け付けたいと思います。何かありますでしょうか。およそ内容が分かるよう村松先生には丁寧にお話していただいたと思いますけれども、いかがでしょうか。内容的に大丈夫でしょうか?

(フロア) 村松先生、お話ありがとうございました。ユタについて教えていただきたいのですけれども、ユタに相談して、間取りに関して何かいじるということは比較的多いことなのかどうか。間取りということというのは、つまり、風水と関係しているのか、ユタの人たちの対処法として風水を重視しているのかというのを教えていただきたいなと思います。

(村松) ご質問ありがとうございます。説明不足で申し訳ありません。 渡邊先生のご研究にもありますように、沖縄で風水というのは重視する方たちがいます。トイレは排泄の場ですが、家を身体にみたてると入り口が頭のほうで、排泄するトイレは出口となるところへ作った方がいいという説明をされたことがあり、沖縄的な風水の見立てがあり、それにそぐわない間取りだと災いが起こるという考え方があるようです。沖縄の世界観のなかでは連続する問題とされているために、職能者のなかにも風水にかかわって家相を見てくれたり、間取りを見てくれたりする方もいます。

(深澤) ありがとうございました。それでは、次のご発表ということで、山内先生に「ヤーニンジュの変容と危機の家族:戦争体験と記憶伝承」をお願いいたします。

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「ヤーニンジュの変容と危機の家族:戦争体験と記憶伝承」 山内 健治(明治大学)

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 山内健治と申します。「危機の家族」というテーマで、私は読谷村という所を中心に発表をします。

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#2  一番の危機は家族の戦争体験です。この戦争体験をめぐっては、読谷村というのは集団自決もあった村です。2007年には、集団自決に軍命はなかったとする歴史修正者への県民の総反対として県民大会が12万人ぐらいの規模で開催されましたが、読谷高校の子たちが「おじい、おばあが言っている戦争体験はうそと言うのか」というメッセージを出しましたが、その前ぐらいからそうした平和資料づくりとか、やっていたりとかしました。
 昨年から、別のプロジェクトで、これは人類学者だけではないのですけれども、「平和ガイドブック」のもうちょっと専門的なしっかりしたものを作ろうということがあって、実は戦争の記憶とかの本を、それを読み直してみて、例えば骨が感応するとか、マブイが語り出したとか、それに対して自分なりにも「ちょっとそれはおかしいのかな」とか思ったりしながら、去年ぐらいから、再度、具体的に言うと位牌のことを中心に戦跡回りもしたのです。もう一つ墓のことをやらなければいけないのですが、今日は武井さんと越智さんと墓の専門家が来ているので、後で何かお意見を頂きたいのです。今日も十分にお墓の話がないので位牌を中心に話します。資料は補足的に見ていただければいいかと思います。
 ヤーニンジュとは何かとありますが、確かにこれも家族概念に関わってくることなので、簡単にだけ説明しまして、それから、危機の家族と関連して、どんなか課題があるのか。キーワードで離婚率が高いとか、社会学的なのかもしれないのが出ているので、その辺も考えなければいけないのかなと思いながら、今日の中心は3番目のテーマになりますけれども、公共的な戦争の記憶伝承ではなくて、危機の家族の中の戦争伝承というところで、位牌を中心に発表させていただきます。

#3yamauchi_03.jpg  ヤーニンジュに関しては、資料にも書いてありますが、田中真砂子先生、渡邊欣雄先生とかがずっとやってきましたが、簡単に言えば、沖縄のヤーニンジュの特徴は婚外子を非常に許容して含んでいて、結論的には正妻が病死したりする場合もありますけれども、そこで生まれた子というのは男の血筋が門中の中につながってくるので、これがヤーニンジュです。
 読谷村の場合は、私が知る限り6人と性関係を持った(同じ父の)子どもたちもいます。夫がいて、これは戦争未亡人という別の要素も入ってくるのですけど、戦後、女性が多かったので、そこに子種ができて、その子たちは今でもいます。中学生ぐらいに「おまえ、おれと顔が似ているよな」と、お父ちゃんが一緒なのだというようなことを聞いていたりすると、とても法的家族とは違うもの、戸籍の家族とは違う認識があります。

#4yamauchi_04.jpg  ただ、門中の組織になってくると、不安定な位置というのは、例えば門中の墓に入れない場合は墓とのずれが出てくるわけですが、この位置をめぐってはいろいろな論文にも書かれてきました。要するに、これだけの許容性を持っているのがヤーニンジュの認識だということです。
 例えばそういう中で今日話すのは、先ほど村松さんも関心があった夭折子、幼くして死んだ子どもたちです。特に戦争というのは結構幼い子が死んでいるのです。それから、今度調べようかなと思っているのですが、これはなかなか聞きにくいのです。未婚で死んでいる若い女性と沖縄の門中組織においてはそのお父さんが亡くなるまでは祀らない位牌の規則との葛藤とかです。それは別として、門中墓の脇に別途のお墓で祭られている場合もあります。これは読谷の場合です。

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#6yamauchi_06.jpg  次に「危機の家族」ということですが、ネット検索するといろいろ出てきますけれども、沖縄は離婚率が1000人中2.7人という意味だと思うのですけれども、全国1位です。全国平均が1.7人ぐらいです。低所得であると、大体200万円ぐらいです。転職率が7.2%で、早婚・若年離婚率が高い。シングルマザー率とか、統計資料がいくつも出てきます。
 これをめぐってはいろいろな社会学的な論文が書かれ分析されていますが、その一例として、中川知春さんという人の論文展開を見ていると、沖縄の男は女性たちと離婚しても、それから外に行って大阪で商売に失敗しても、例えば帰ってきても、門中の中での血筋のプライドもしくは位置づけが変更しないからできるのだという。そして、なぜ離婚率が多いのかというのを親族関係の中で考えようとしているところがあって、それを読んでいて、私自身のフィールド資料は少ないので、どう判断・評価するか分からないので、そういう社会学の方法が一つの沖縄の研究分野にあるということにここではとどめましょう。
 2番目の「ロンリー&ロストゼネレーション」というのは僕が作ったキャッチコピーではなくて、去年、首里城が燃える1週間ぐらい前に沖縄民俗学会があって、参加しました。その会には、沖縄学のうるさ方がいっぱいいるわけです。沖縄は、ヤマトンチュが聞くと、こんなことも知らないとか。そこでちょっとお墓の話もあったのだけど、実はこの話、深澤先生から頂いた今回の資料とかチラシを持っていたので、『危機の家族』で今度、外国語大学で何を話したらいいのかと数人に相談したら、「それはロンリー&ロストゼネレーションでいけ」と言われて、どういうことですかと聞くと、話の内容はこういうことです。
 祖国復帰後、1972年以降、厚生省、その前のアメリカのものでなくなったので、いろいろな老人ホームができたのですけれども、今、入っている90歳の人たちというのは、自分たちは90歳の親たちを全部自宅で送ったのです。今度、自分は独房みたいな所に入れられてしまうのかと。それから、送った側はちょうど僕らの年代だと思うのですけれども、まだ「このばかもん」と言われるようなものもあるらしいです。東京や内地ではある程度年を取ったときはそういう施設の中でということが普通だが。その理由は何ですかとかと聞くと、そういう所に入れたら、先ほども出てきた祖先祭祀がお墓を含めてすごく大事なので、て例えば、読谷村の施設は家の近くにあるので、そこからまた逆に送迎しなければならなくなってしまうし、そういったもののデータがないのですが。どのくらいの率で読谷村を調査して、そこに送り込んでいるのかは今後の私の調査課題ですが。要するに、沖縄のそれについてのキーワードはロンリーゼネレーション、もしくはロストゼネレーションだということです。

#7yamauchi_07.jpg  これは去年の「エイサー」のときに撮ったのですが、楚辺という調査地の話です。老人の問題について現在の様子を撮影したものです。これは区長さんとか執行部にも言われて、許可を取っています。
 右端の電柱の人です。全く民生委員も介護も絶対に受け入れなくて、要するに引きこもりで、認知症の方らしいのだけど、こういうときにぽんと出てくるのです。出てきたことをシマ社会はみんな知っているのです。今は、この方の子どもたちはこのムラにはいないのです。だから、本来はそういう施設に行った方がいいのだけれども、シマの中の情報でこの人が今どこに行ったとか、極端な場合、海岸とかに行ってしまうと危ないから、そういうのを全部情報が共有されているというような話を聞いて、「ああなるほど」と思いました。要するに、シマ社会です。

#8yamauchi_08.jpg  それから、もう一例だけ、高齢者の話題に触れておくと、この写真です。このセットがありますね。この事例は99歳のものです。このセットは大体月に1万円ぐらいで貸してくれるそうですが。家族の末期ケアセットです。これは結構普及しているそうです。やはり畳の上で死にたいのです。それは突き詰めたら何かというと、この事例の介護人(3男)の話では、多分、祖先祭祀に関係あるのかなと私は、思っています。

#9yamauchi_09.jpg  この家にあるのはノロの位牌です。これは特別です。ノロの家だからノロの位牌がずっとあるのです。これを放ったらかしにして、もしくはこれを持って特別養護老人ホームに入ることはできないのです。これに関連する祭祀はいっぱいありますからね。この家を継いでいるのは、系図がありますが、クリスチャンです。三男の人で、ちょうど63歳ぐらいの人が面倒を見ています。子どもはいないです。

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#13yamauchi_13.jpg  ここから本題ですけれども、平和の礎ですけど、戦争の記憶ということです。家族と結びつけて、もう1回資料を見直したり、検討して見ましたが、この平和の礎は多くの方が行ったことがあると思うのです。
 ここ写真の家族は読谷の古堅という集落の方々ですが、これを撮って見ていたのだけど、これは全部必ずしも家族単位になっていないのです。離れていて後で亡くなったとか。それはともかくも、慰霊の日に、刻まれた故人への献花と黙祷がなされます。
 もう一つ、これは「平和ガイドブック」に載せようと思っているのですが、沖縄県教職員組合の3階に7609の位牌があるのです。要するに、教育関係者だから、小学生も含めて、もちろん、ひめゆり学徒も含めて、それから、当時の事務系職員も含めて教員も全てです。7609枚を1952年に既に作っているのです。家に位牌を作らなかった、作れなかった場合もありましたが、ここには、全ての故人の位牌が祀られています。ここは許可をもらえれば、拝見することができます。ここの位牌については平和の礎とかひめゆり資料館とかの犠牲者の氏名の元にもなったようです。私も焼香しましたが、その多さに、ぞっとしました。集会室みたいな所があって、そのステージの上に全位牌が地区別に祀られています。

#14yamauchi_14.jpg  そういう慰霊の日のもう1枚の写真は、慶良間諸島・座間味の集団自決跡の慰霊碑です。

#15yamauchi_15.jpg  ここから読谷村の調査地、楚辺という所の話です。これは去年の6月23日の慰霊の日ですが、この日は雨が降ったので体育館になってしまったのですけれども、三々五々集まってきます。

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#17  読谷村という所は、米軍が本島で最初に上陸してきた所なので、艦砲射撃で集落は木っ端微塵になり、その後、村内に多くの米軍基地が建設され多くの、集落が強制移転しました。楚辺にはトリイ陸軍基地があり、近隣に移転したままの集落です。こういった所で家族というのはどういうふうに機能したのかなと考えながら今日の資料を作ってみたのです。
 楚辺の元の集落は、戦後、西へ2キロほどの畑作地に移転しました。波平地区には、集団自決があったチビチリガマが海岸沿いに位置します。この辺の現在の集落の調査をしています。

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#20yamauchi_19.jpg  ここでの戦後の「家族の危機」は、文字通り、木っ端微塵になるわけだから、家がなくなるというのが一番の危機です。どうしたのかというと、北部へ逃げるとか、いろいろあって、そこで捕まって、米軍の収容所にいてということになりますが、元々の村はここにあったのです。今、これは基地の中ですが、お墓もこっちにあります。結果、強制移転して、碁盤の目のような村ができているのです。碁盤の目というのが重要なのは、家族が昔、近隣の、後の班構成と関係するのですが、昔の屋号で小字で住んでいたものが、シャッフルされて抽選でこちらに住んでいるのですけれども、昔の近所隣の家族関係の認識、ネットワークが新集落でも生きているのです。昔は井戸を単位として、家の付き合い、組ができていたのです。それが移動しても、ここではシャッフルされても旧の近隣ネットワークがいまでも、認識の中にはあるわけです。昔のネットワークが。

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#22yamauchi_21.jpg  今の集落の中の親族の事例だけを説明します。今日配った資料の「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」という歌を作った人たちの一族ですが、この系図を最初に見たとき、こんなに亡くなって、よく門中墓とかそういった親族の復興ができたなということを、ライフヒストリーを聞きながら感じたものです。B1というのは「対馬丸」で亡くなっています。事故死というのはC3の二人ですが、これは戦争で亡くなったのではなくて、戦後、米軍車両に激突されて亡くなっています。結構米軍の事故が多かったのです。
 まず、このC3の配偶者の方から説明すると、C3の妻、この人は、先ほどの婚外子とかではなくて、大阪に行って大阪空襲で亡くなっています。そのときに自分の子どもたちは「対馬丸」に乗せているのです。この子は大阪に残していたのですが、大阪空襲で亡くなっています。「対馬丸」という1407人が亡くなったときに乗っています。ここの一族の一部の家族も乗船したのです。●/▲の方々です。
 私が聞き取りしていたのはE1の方ですが、戦争が終わってから、ハワイに軍人として収容される場所があって、そこに行って帰ってきたら、キャンプの中で自分の娘が死んだことを1年ぐらいしてから知ることになります。このお宅に僕はよく通っていていろいろ聞いていたのだけれども、この子の位牌がずっとなかったのです。それはなぜかというと、先ほど言ったトートーメーの慣行があって、男がまだ亡くなっていないから、そこの資料に書いてあるイナグガンスの忌避というのがあって、女はガンスに先になれないのだということです。これは沖縄の中部地域は特に強いです。

#23yamauchi_22.jpg  3年ぐらい前、ここのお宅は、この方、世帯主の父が亡くなって初めてこの女子の位牌が最近作られ、表に出てくるというか。これがそうです。比嘉ミエ子さんという人です。僕はミエ子さんという名前を、今回、調査に行ってはじめて伺いました。小さい時に、避難キャンプで亡くなっていることは聞いていましたが。先ほどの夭折子、幼子です。こういう事例は結構あって、これがいつ起こっているのか。今、起こっているのです。要するに、当時のお父さんが90歳ぐらいになっています。90歳、100歳になってくると亡くなると。そうすると、そこで幼くして亡くなった子もお墓に入れないというところもあるけど、特に女の子の場合はガンスにできないからという現象が起きていて、これを見て初めてここに拝むときとかに集まってくるわけですけれども、家族と戦争のことに関して聞くと、「どういうときに話しますか」と言ったら、もちろん慰霊だけど、あとはお盆とか七夕とか、それはどういうときかというと位牌を見ながらです。本当の家族の中で「このおじいさんはこうして死んだのだ」と語り継がれるのです。

#24yamauchi_23.jpg  これはチビチリガマですが、チビチリガマは随分前から聞き取りをしてきました。チビチリガマの入り口には碑があり、これは家族単位で刻印されています。3歳とか幼児や女子が多いです。ゼロ歳とか。位牌は、無論、各遺族の関係者宅にあります。

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#26yamauchi_25.jpg  これは老人会長で、知花昌一氏がチビチリガマについて説明している写真で、去年の慰霊の日、大学でジャーナリズム論を指導している金平(ニュースキャスター)さんが、学生さんと来ていて、知花氏の説明を聞いているところです。骨はどうなっているのかというと、今は入れません。チビチリガマは高校生やヤンキーがいたずらして、今、修学旅行生を遠ざけています。

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#28yamauchi_27.jpg  このときにも入っていくと、これは昔、見たのとあまり変わっていなかったです。鎖骨があったり、茶色いのは全部骨です。これは石油とか、自決の時と時間が止まったように、この中に油が入っていたとか、割れた茶碗とかがあります。生活もしていたわけですから。

#29yamauchi_28.jpg  この昨年の話とは別に、2008年に文化人類学会で「沖縄戦強制集団死の社会人類学的考察」とタイトルで発表した時にも思っていたことですが、シマの密閉性というのがあるのです。シマ社会で話ができないことの繊細な戦争証言の話者の立場や遺族の問題です。

#30yamauchi_29.jpg  上原進助氏はハワイのイーストウェストセンターにいたときに偶然知り合ったのです。この人はチビチリガマを12歳で生き延びた人ですが、後に牧師さんをハワイでやっています。彼はすごくよく語ってくれるのです。そのとき、どんなふうにして、どこに注射針があって、どこに誰がいて、そのときに叫んだのは誰々のおじいだとか、布団は誰が持ってきたとか、この人のおじいさんもチビチリガマの中で亡くなっているのです。それで、この人の話というのも証言の一つではありますが、最近は、遺族会の全ての認める話ではないというスタンスが必要になってきました。
 では、そういう戦争で亡くなった子供の位牌をもう一回見直してみると、先ほども言ったように、親族調査をしているとき、「これは長男が亡くなったのですか。こちらの門中はどこにつながっているのですか」とか聞いていた系図の中では、かなり故人の数にのぼっていて、その位牌の祭祀や処理については、実は詳細には聞いていませんでした。

#31yamauchi_30.jpg  さて、本日の言いたいことは、戦争の記憶伝承とか家族のことなので、どういうときに戦争の話が家族の中でされるのかということを最後に紹介します。もちろん毎年の旧盆のムカエア、送り行事の中で、親戚の集まる時にも戦争で亡くなっている祖先がいれば話は出ます。私のインフォマンは、最近は敬老会で話す戦争体験者の話は孫たちに直接伝えるのではと言います。この敬老会というのは必ずどこの集落でもまだやっています。沖縄の本島ではやっているし、敬老会に出ると最近いろいろなことが分かってきて、敬老会も全部出るようにしています。もちろん、そこに子供家族が集まるわけです。

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#33yamauchi_32.jpg  それから、読谷村はイベントが多い所ですが、これは「エイサー」もそうですが、読谷村は平和コンサートと言ったイベントが多い所です。そういう中で家族はどれだけ集まっているのかなと思って写真を撮ったのです。やはりそういう中で、昔で言うと運動会とかの場所取りとかがあるのだけど、ここは家族単位だなと思って別の見方でこの写真を撮ってきたのです。こういう中で伝承されていって次の世代にとか、そういう継承の場と思ったわけです。

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#35yamauchi_34.jpg  それから、もちろん門中の祖先祭祀など家族の会食とか、こういった所です。この集まる各家族にも日々の悩みや問題があるでしょうが、こういうときの集まり方は、沖縄の家族の集合性が一番出ていると思います。

#36yamauchi_35.jpg  これもちょっと後の話に関係しますが、場所にすごくこだわります。これは3人目なのだけど、産んだときにその土地(北谷町)の神様に祈願します。この母はまだ若くて、那覇に勤務していますが、こういうことがまだあって、土地の神様に対して健康祈願します。

#37yamauchi_36.jpg  それから、お盆のときというのは「エイサー」が繰り広げられていくわけですけれども、「エイサー」のあがり(卒業)は同齢集団、地域によって二十歳とか、22歳とか、いろいろありますが、年齢をすごく気にしますね。それを先輩たちが見守り指導する。

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#40yamauchi_39.jpg  年齢の原理が非常に強い所です。通り一辺倒で申し訳ないのですが、「行き会えば兄弟(イチャリバチョーデー)」という昔から沖縄方言公用語みたいな言葉がありますが、分解すると、bloodとageと土地です。それからmemories of the time、これはアフリカのボディをやっていた福井先生がよく使っていた説明概念で、「地縁」に対する「時縁」です。
 このキーワードを使いながら、シマ社会と社会的ハザードがどういうことか説明して見ます。福井勝義先生が言っていて初出は参考文献に挙げています。そこでも、読み直してみると「家族の危機」ということが一つあって、それに代わる近所隣のネットワークとかというので複数の研究者たちが語っているのですが、例えば、オーストリア農村に間借りしてくる人たちがいて、間借りする人間たちがいつの日かその地域の定住する家族になる。福井勝義さんのものは遊牧民で、中に血縁関係、呪いとか、いろいろあるらしいのだけど、移動して、離集・拡散しながら別の所で移動しながら接触する。そこにまた、新たな家族みたいなネットワークが出来上がっていく。あと、ハワイの移民のことでも言っています。しかし、あまり細かい定義はしてはいません。ベフ・ハルミ先生と福井さんが討論しているところもあるのですが、同時代的な体験をしたときの「縁」ということのようです。
 こうしたことを参考にしながら、沖縄の事例に当てはめると、沖縄の中部地区も歴史的に掘り下げてみると、沖縄の集落は結構移動しているのです。そうすると、結構移動した経緯によるネットワークがあり、さらに移民のことで言えば、沖縄もハワイの移民が多い所ですが、ハワイの移民の方に行って、一つまとまるのは共通の「エイサー」の踊り方、三線の演奏、踊りの衣服を共通して持っていたりとかするのです。要するに、経験的な時の縁というのがあって、それが「シマ」という言い方をするという感じがあります。
 沖縄戦のことに関してもやはりソテツを食っていた時代の人たちの話とか、そこに縁が発生していて、同じシマ、同じ自治会の中にも階層があって、昔の集落の移転する前の所で育った人たち、それからこちらで育った人たち、それから戦争を知っている、知らないと、そういう時の縁というのがあって、血縁、地縁、年齢、時の縁というのがシマ社会を支えてきて、これが、ぐるぐる回りながらネットワークを作ってきたのではないかなと思います。

#41yamauchi_40.jpg  ここで話を変えますが、参考文献にのせた打越正行さんの『ヤンキーと地元』という本が出たので、それをちょっと解説します。彼の調査地はシングルマザーだけでなくて、結構ヤンキーが多い所です。彼らはどうやって輩出していくのかというと記述を読み直して分かるのです。私は、シマ組織と血縁と年齢の原理から出て行ってしまった人たちというのは、コザの町でキャバクラをやりながら、大阪から来たヤンキーと一緒にいて、子どもを作って別れられて困っているみたいな、現代の沖縄の危機かもしれないのだけれど、それは先ほど言ったネットワークから出てしまった人たち、そしてシマへ戻れないのかもしれない新ゼネレーションとか想像しますが、私自身の事例が少なくなんとも言えません。そういうものも含めて沖縄の家族と<シマ>は何かということです。
 沖縄のこういうものがシマ、血縁、年齢の原理、この年齢の原理というのは「エイサー」ですごく気にするのです。それから、僕が行っても先輩とかいう形で、沖縄の社会はすごく年齢を気にします。この中で女性はどうなのかはあまり聞いていなかったので、後で質問を受けたいです。質問したいです。それから、時の縁とか、そういう経験値、一緒に「エイサー」を踊ったとか、一緒に慰霊の日にいたとか、こういったものが崩れてしまうと回収できなくなるという言い方は変なのだけれども、守れなくなるというか。一番言いたいのは、ここの血縁と地縁と年齢と時縁の中のシマの一番の特徴は何か。この質問を調査中でも再三にわたってしてきたのですが、今年も何度もこのテーマを頂いて、結局、結論的に言うと、シマ社会の人間は情報量が圧倒的に多いということです。それは先ほど言ったように、どこで何が何をしているのか。あの家は借金でもうすぐつぶれそうだとか、あの家はBSを入れたとか、細かいことをすごく知っていて、それを全部知ると、村の区長さんとかは本当に知っています。
 ここは先ほどの認知症以外にも、重度の身体障害者ほか介護を必要とする人に対して、「多分あれはコインランドリーにいるから、親が心配していると帰ってくるからさ」「ガソリンスタンドに多分いるだろう」とか、あまり警察に通報するまでにはいかない。交番があるのだけど、警察に通報して捜してもらったことはない。こんなに都会(あの土地は沖縄の村としては都会です)でも、これだけの情報を共有していて、「あそこはもうすぐ危ないぞ」とかいう情報をすごく濃厚に持っているということがシマの特徴であり、家族の危機をのりこえるという話で、本日の発表を終わります。

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(深澤) ありがとうございました。それでは、山内先生のご発表の中で出てきた沖縄特有の言葉であるとか、あるいは沖縄固有の文化的・社会的事象について何か質問がありましたら受けたいと思います。一応私の方から補足しておきますと、ここに出てくる「シマ」という言葉はアイランドの島と同時に、いわゆる村とか部落、そういうものを沖縄の言葉では「シマ」と呼んでいます。何か山内先生のご発表をもっとより深く知るために説明が必要であればご質問いただきたいと思いますが、大丈夫でしょうか。では、山内先生、ありがとうございました。

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ー休憩ー

(深澤) ご発表の後半に移りたいと思います。3番目、石川雅信先生、「奄美大島における人口減少と家族」ということで、まずご発表をお願いいたします。

「奄美大島における人口減少と家族」 石川 雅信(明治大学)

「奄美大島における人口減少と家族」発表要旨PDF

(深澤) ありがとうございます。ちなみに奄美は伝統的な祭りということで、非常に盛んなのは、旧暦の8月15日の十五夜祭りになります。このときに綱引きをやっていたということです。そのことを今、石川先生はご指摘なさったと思います。  それでは、最後のご発表ということで、加賀谷真梨先生に「高齢者をケアしているのは誰か:地域福祉の現場に見る家族の諸相」ということでお願いします。

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「高齢者をケアしているのは誰か:地域福祉の現場に見る家族の諸相」 加賀谷 真梨(新潟大学)

※発表内容非公開

(深澤) ありがとうございました。それでは、時間が押し迫っておりますけれども、加賀谷先生のご発表の中で、何か。沖縄の言葉であるとか、波照間の習俗に関して聞いておきたいことがあれば。では、西井さん。

(西井) とても面白い刺激的なお話をありがとうございました。波照間の4ページの表1の所ですが、小規模の施設のスタッフの方々がたくさんいるようですが、いろいろな所でスタッフが足りなくて、本来は毎日1回行くべきところを、1日しか行けないとか、そういう報道なども目にするのですが、ここではスタッフの数というのは足りているということなのですか。

(加賀谷) スタッフは常にこちらでも募集している状況ですけれども、介護に関わってなかった人を取り込んでいく技術に長けているといいますか、例えば売店の売り子さんでも、「あなた、この時間は空いているよね」と。先ほど山内先生が、全て島では見えるということをおっしゃっていましたが、空いている時間が分かるので、逆にリクルートしていくのです。例えば、送迎だけ、「ここ、入ってくれない?」とか、あるいは、夜の見守りだけ、「30分でいいから、ちゃんと寝ているかどうか見てくれない?」という形で取り込んでいっているということです。ここに書いている人以外でもちょっとずつ関わっている人たちはいます。そういった意味で人手は、何をもって足りていると言えるかは分かりませんけれども、どうにかぎりぎり維持している形です。

(深澤) ありがとうございました。

―休憩―

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(深澤) それでは、ここからコメンテーターの先生方のコメントと、その後それを受けて発表者、コメンテーター、最後に会場の皆さまを含めての全体討論という、最終のセッションに移りたいと思います。  最初のコメンテーターは、國弘先生です。國弘先生は、実は奄美沖縄研究とはほとんど関わりがありませんが、私の方から飛び込み営業でコメンテーターを無理にお願いした次第です。國弘先生は、インドのトランスジェンダーのヒジュラの研究を長くやられているのですが、最近はそこから世界的に視野を広げられまして、クイア(Queer)というふうなある種の違和感、おかしさというものを梃子に人間というものを見ていこうという非常に挑戦的な戦略を展開されている研究者です。その点で、沖縄とか奄美というものを知らないという点から大いに「暴れて」いただこうということでコメントをお願いしています。では、國弘先生、お願いします。

コメント1 國弘 曉子(早稲田大学)

 ご紹介ありがとうございます。國弘です。今まさに私の家族が危機的な状態にありまして、病気を互いにうつし、うつされながら、今第二ラウンドに入っております。私自身もひどい風邪をひいておりますが、そんな中、どうしてもこの研究会に参加したいという思いがありました。その理由は、もし、私がインドを調査地として選択しなかった場合、沖縄で行いたいという私自身の長年の思いと関係があります。今ではもう過去形になってしまい、今から沖縄調査を始める余力も無くなってしまいましたが、本日お集まりの先生方は沖縄で長年研究を続けられており、そのご研究の発表を直に伺えるというまたとない機会は逃すわけにはいかないという思いから、本日は体調不良ではありますが、何としてでも参加したいという思いでやって参りました。ご参席の皆様に風邪をうつすといけませんので、本日は恐縮ですが、マスクをしながら、コメントさせていただきたいと思います。
 本日のシンポジウムでは、「家族」と「危機」というキーワードが掲げられておりますが、北インド社会で長年調査を行っておりますと、家族というのは「危機」そのものなのではないかなと考えるようになってきています。その場合の「危機」が意味しているものとは、例えば、子供が生まれるという出来事があります。生命の誕生とは、今まで目の前に存在していなかった生命体が突然やってくるという出来事ですから、全くの他人であって、自立できない生命体を受け入れる家族と称されるメンバーにとっては、危機をあえて迎え入れる覚悟を持って臨む必要があろうかと考えます。また、家族のメンバーの誰かが結婚となれば、外から他人が入ってくる、それも一つの大きな変化で、一般には「幸せ」と表現されますが、ある種の危機を乗り越える儀式を必要とするものと考えます。そして、家族のうち誰かが死ぬという出来事も、もちろん危機的な状況だと考えます。誕生や死、他人との婚姻は、ある程度の予測がつきますので、突如として襲いかかってくる危機に比べれば、衝撃の程度は低いものですが、やはり危機であることには変わりなく、限定的な家族だけで耐えるのではなく、よそ者の力を取り入れながら対処するという仕組みが、土着の慣習として出来上がっている、ということをこれまで考えてまいりました。
 常態として在る「危機」の問題対処にあっては、土着の慣習によって、なすべきことが決められていますから、人はそれを粛々と成せばよいと思います。しかし、当然ながら、私たちが耐えなければならない危機とはそれだけではなく、全く予測もしていなかったかたち、あるいは予想を超える規模で襲いかかってくることがあります。本日の四名の先生方がお話しされた「危機」というのは、粛々と対処できるような問題ではない方の、後者の「危機」に関する事例であったと思います。例えば、戦争や災害、そして介護という問題は、よそ者が突如として自分たちの内側に入ってくる問題としてみることができます。ユタが家族の問題に関与してくるというのも、やはり外の力が突如入ってきて、内部に何か問題が起きる、という事例であろうかと思います。それぞれの危機を、どのようにして対処しているのかということを、それぞれの先生方が細かく、具体的な出来事の逸話を挟みながらお話ししてくださいました。私自身知らない事例がたくさんありましたので、とても興味深く話を聞かせていただきました。
 このシンポジウムの企画について話を伺った時から、今に至って、気になっていることが一点ございます。それは、「沖縄の」という形容が付くことに関してです。沖縄という土地には観光客として関与したことしか私自身ありませんが、研究対象として、「沖縄」と言い切ることが、果たしてどこまで妥当なものなのか、この点に関して、本日ご発表いただいた先生方のご意見を聞いてみたいという思いがあります。
 どうしてそんなこと考えるのかといいますと、先日終えが書評の仕事と関係しています。東大の瀬地山先生が編纂された『東アジアのジェンダーとセクシュアリティー』という論集の書評を書く仕事でした。瀬地山先生ご自身は、20年近く東アジアで調査を継続されてきた中で、大きなマップが見えてきたというお話を序論の中でされています。そのマップでは、コリアン、チャイニーズという線引きが可能となり、そこには入らない、もう一つの区分、ジャパニーズが存在するというものです。とりわけ興味深い点は、例えば、韓国と日本は、資本主義という点で近いように表面上は見えるけれども、それらの土壌に根付いているジェンダー規範、家族の規範という問題に目を向けてみると、むしろ遠いものとして理解することができ、共産圏の北朝鮮との方が、韓国は価値観の多くを共有しているところがある。そして、同じような主張が、台湾と中国においても言える。そのため、日本は東アジア圏内ではどことも接続を持たず、ジャパニーズという独立したカテゴリーが必要とされるという、考えを表現したマップが提示され、その議論を補強するかのような論文が収められて、大変興味深い論集でした。
 そして、本日のシンポジウムにおける「沖縄の」という形容についてですが、もし、瀬地山先生が提示されたような東アジア圏のマップがこの場で出された場合、沖縄で調査をされている先生方はどのような配置を考えられるのか、この点に関心がございます。もっと具体的に申しますと、「沖縄の」という表現を使用することの妥当性はあるのかどうか、沖縄でしかない、というものが、実は、そこらにも転がっているということはないのだろうか。先ほど加賀谷先生からは、「沖縄の、というふうにも必ずしも言い切れないのではないか」というご意見がありましたが、沖縄だけにしかないものというふうに言えるようなジェンダー規範、あるいは家族規範があるのか、そうではないのか、ぜひ、そのあたりも聞かせていただきたいなと思います。
 そして、沖縄で研究をしてみたかったという憧れを抱いていた者としては、もう一つお聞きしたい質問がございます。全く異なる言語圏まで飛行機に乗って行き、そこで調査を行っておりますと、日常の生活と調査地での活動との間にブランクが常につくられる状況にあります。最近はSNSですぐに連絡が取れますし、また、一方的にいつ何時でもメッセージが送られてくるので、日常生活と調査との境目がなくなりつつはあるのは事実ですが、しかし、沖縄で研究される場合には、そのブランクが非常に少ない、あるいは別の形をなしているのではないかと思います。日常ではない調査の機会と日常生活との線引きが曖昧な状態にある場合、調査者と調査される方々との関係性というものはどのようにつくられるのか、その調査手法について、ぜひお聞かせいただきたいと思っております。研究者である先生方が発言されることは、沖縄に住んでいる人々の耳には容易に届くでしょうし、その内容が、沖縄らしさというふうに一人歩きするようなことももしやあるのではないかなと、そんなことも想像したりしております。
 それから、最近では、私自身は北インドだけではなく、フランスの家族の在り方についても興味をもって調査を始めておりますが、そこで、本当に些細な個人的なことですが、山内先生のご発表の中で、打越正行先生の『ヤンキーと地元』の事例を紹介しながらの議論にとても興味を持ちました。資料④を見ていて面白いと思いましたのは、沖縄における「島の原理」から外れた人たちの性の在り方だというご紹介がありましたけれども、「キャバレー」という言葉を除くとフランスでよくある事例であると感じられる点です。つまり、沖縄で逸脱として語られる状態が、フランスでは当たり前に一つのファミリーの形をなしているということを認識させられ、何故このようなことになっているのだろうかと、興味をもってお話を伺っておりました。そして、もし、フランスでこのような生き方と、そうではない生き方を良しとする考え方があるとするならば、それは何なのかということも同時に考えていました。おそらくですが、後者に相当するものとは、現代ではマイノリティにありつつあるカトリックのコミュニティーではないかと考えます。カトリックの教会を支える人たちが形成するコミュニティーで語られるファミリー像というものは、理想的なものとして容易にイメージをつくることのできる家族像であると考えます。昨今では、そうではない家族のかたちが実態として増えている状況にあるので、この差異のあり様について考える上で、山内先生のご指摘が非常に興味深いと思いながらお話を伺っていました。
 以上になります。ありがとうございました。

(深澤) ありがとうございました。今、國弘先生から投げかけられたコメントについては、次の四篠さんのコメントが終わった段階で、討議したいと思います。このシンポジウムを開催した人間としましては、沖縄ということに取り立てて焦点を当てて議論をしたいというよりは、家族ということに焦点をあててシンポジウムを組みたかったと言うのが本意です。しかしながら、世界から家族に関する事例を集めてくるととほうもない多様性があるため、取りあえずは沖縄、奄美方言の中で議論すると少しはまとまるものがあるのではないかと考えた次第です。あるいは先ほど述べたとおり、奄美までは琉球王国の支配下にあった上、例えば神役制度であるとか、そういうものも共通性を持っているという点で、非常に危険な言い方ですけれども、「基層文化」的なつながりがあるのではないかという前提を設けています。
 では、続けて、四篠さんにコメントをお願いします。四條さんは、フィールドはハワイにおいてハワイ系の人々の調査をされているのですが、ご自身のルーツが奄美にあるため、その一方で奄美の研究もされているということで、コメントをお願いした次第です。では、四條さん、お願いいたします。

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コメント2 四條 真也(首都大学東京)

 ご紹介いただきました四條です。よろしくお願いします。深澤先生にもご紹介頂きましたが、改めて簡単に自己紹介をさせていただきます。私が今しているのはハワイ研究ですけれども、文化人類学を始めたきっかけというのが、両親が元々奄美群島の出身だということがあります。私自身は関東でずっと育ったわけですけれども、時代の中でちょうど沖縄ブームとか、そういうものが学生時代に起こりました。私の親世代はどちらかというとシマの文化を避けていたのに対して、私やイトコたちの世代が、もっとシマ文化に関心を持つような、そういう状況が身近にありました。そういうことも重なって、大学では文化人類学の中でも特に奄美ということについて、フィールドワークもして修士論文を書きました。博士課程になって、いろいろもう少し広く見てみたいなということで、同じテーマで、土着性であったり、ハワイの場合だと先住性という言葉になりますが、そういうものの普遍的な状況を見てみたいということで、現在はハワイの先住民社会をテーマにして研究をさせていただいております。奄美からハワイにフィールドは変わっていますが、自分の中では問題意識・設定というものはあまりずれてはいなくて、ただ地域が変わっただけという風に考えております。いずれはハワイで見て考えた状況と沖縄奄美の状況とをシンクロさせて、あるいはつなげて、何か新しい提言なりにつながればいいなと思っているところです。
 早速、コメントに移ります。全体の発表を伺った感想というかコメントを最初にしたいと思います。今日の4名の先生方のご発表というのは、新たな親族論への提言のみならず、理系・文系双方の人類学における家族という機能の発生動機に関する試みとして拝聴しました。例えば家族の発生動機としては、これまで西洋で中世以降キリスト教倫理でも影響を受けた、生殖のための最小単位としての家族、そういうものが理想化され、本質化されてきたような状況があると思います。ただ、今回のシンポジウムのご発表から家族というものを考えてみますと、家族というのは関係性に基づく家族も含めてですけれども、危機に直面したときに結束する、あるいは結束を促されるような、その危機にあらがう最小単位として発生したということを想起させるような提言だったと感じました。
 ここから各先生方へのコメントを少しだけさせていただきたいと思います。まず村松先生のご発表です。私としては沖縄の状況ということで聞きやすい発表でしたので、すごく楽しく拝聴しました。村松先生の発表を私なりにまとめてみると、家族というものの存続のために行き来、あるいは困り事の解決方法を模索すること、ご発表の中では「想いを共感する」という言葉で表現されていたと思います。模索することで、家族という枠組みが逆に立ち上がってくるということについての発表だったと理解いたしました。ご発表の中で触れられていた危機という状況下で、家族という枠組みが、沖縄の場合には特に浮き彫りになってくるということがよく分かる事例を提示いただけたと感じております。
 この沖縄の家族に関して私の受けた印象あるいは思ったことですが、根底にはやはり祖先祭祀、祖先崇拝のモデルとしての互酬関係というものが、現在でも意識されているのではないかなと思っています。今回の事例からは、祖先からの恩恵というものをどのような形で受け取るかに関して、家族内、個々人の解釈によるずれ、そういうものに起因した家族というものが、再帰的認識されるような状況というものを、一例を通してご説明いただけたと思っています。コメントはもう少し書いているのですが手短にこれくらいにしておきます。
 その中で、私が気になった部分というか、村松先生に伺いたい内容というのがあります。例えば沖縄などの状況ですと、多宗教的な状況があるということをご説明いただいたと思いますけれども、祖先の意思、祖先崇拝における互酬関係の中で祖先の意思を解釈する中で、個人の判断、それはユタとかノロとかに影響されないような、個人の主観とか判断というものはどの程度尊重されるのかということを、ひとつ伺ってみたいなと思っています。専門的ではない解釈、個人による解釈の存在意義というものが、村松先生が見た範囲の中でどの程度意識されているかというのを教えていただければと思います。
 次に山内先生のご発表ですけれども、社会的ハザードの共有が地域社会におけるメンバーシップの一つの要素としての役割を担っているというご発表だったと理解しております。ハワイの状況などとも重なる部分がとても多くて、例えば戦争の記憶であったり、戦争体験の伝承というものに関して言うと、アメリカの本土であったり、ハワイでその戦中、特に太平洋戦争、真珠湾攻撃以降に起こった日系人の収容、そういうものとの共通点があるのかなと思っております。
 現在ハワイでは、歴史的な記憶を、特に日系人社会の中で次に継承しようという試みが行われているのですけれども、その中で注目されているのが、ハワイで実際に存在していた日系人の収容所がよく取り上げられています。2000年代以前の状況だと、地元の人の話では、ハワイでは日系人の収容所はなかった、ということがよく言われていたのですが、2000年代の後半になって、実際に日系人の収容所があったのだという話が突如広まるわけです。その背景にあったのは、収容を経験した当事者の方たちが、戦後はむしろその記憶を隠すような状況があったと言われています。自分たちの身に起こった悲劇というものがトラウマのようになっていて、なかなか次の世代には伝えられないということがあったのですが、それが2008年以降ぐらいになって、次の世代がその記憶をどんどん掘り起こして次に伝えていこうということが、政府の取り組み、あるいは日系人コミュニティーの取り組みとして行われているという状況があります。
 そういう社会的ハザードを共有することによって、コミュニティーが結束すると次の世代が先代、過去の意識を共有するということが起こるのではないかなと思うと、沖縄の現在の戦争体験の共有とかそういう類のものは、世代をつなぐ一つの重要な要素になるのではないかな、と拝聴しながら考えていました。
 あともう一つだけ、山内先生がご質問くださったことでもありますが、世代感覚に関して、年齢がとても意識されるような状況がシマ社会にはあるというお話について、私の知っている状況を少し話したいと思います。特に奄美地域にあるような状況ですと、若い世代の人たちがシマ社会から距離を置くような状況というのは、私の周囲を見てもよくあることです。ただ、そのシマ社会から離反したような人たちが、またそれぞれ若い人たち同士で、例えば同期会のような同じ学年同士の人たちの集まりというものを作って、これはインフォーマルなものが多いのですが、その中でお互いに情報交換をするようなことが、特に島外の都市部などでよく見受けられます。もちろん島内でも同期会はかなり盛んでして、東京の郷友会などよりもむしろ活発に機能しているような状況が、私の身の回りではここ10年ぐらいあります。
 その同期会というのは結構排他的な組織でして、学年が一つでも違えば参加できないというところがあります。私も少し興味本位で、「一つ学年が下の同期会に行ってみたいのだけれど」という話をしたときに、「絶対駄目だ」と言われました。その同期会というのが実はシマ社会、島におけるような物理的、地理的空間をかなり超えた状況を包括できる、そういう組織でもあるのかなと思っております。学年が同じなら、奄美群島出身者なら誰でもいいと。島が違ってもいい、片仮名の「シマ」でも漢字の「島」でも問題ない。ただ、学年は絶対この学年ということがあります。また、特に若い世代が感じるような島特有の世代間の人間関係のある種の煩わしさや、そういうものに対するアンチとして同期会というものがかなり水面下では活発になっているような印象を最近は受けております。限られたミクロな状況ですが、こんな状況があります。
 次に、石川先生のご発表ですけれども。私自身の祖母が石川先生の調査をしている地域出身ですので、ひらとみ祭りなどの事例はとても具体的なイメージを想像しながら話を伺わせていただきました。発表の中では、さまざまな要因を背景とした危機に関して、集落内の伝統的なつながりを基盤とした、かつての取り組みを紹介してご発表いただけたと思います。私なりに、なぜこのようにシマ社会が危機に対応できる状況があるのかということを、先生のご発表を伺いながら一緒に考えてみました。先生自身もおっしゃっていましたけれども、やはり島を何とかしたいという地元の人の思いがあるということは、とても重要なことだろうと思います。
 加えて、恐らく今日は時間の関係で割愛されたのだと思いますけれども、島内だけではなくて島外の出身者組織の存在もまた、重要になっているのではないかと感じます。本土のことは「内地」という言い方をしますけれども、奄美以外、九州、四国、本州、北海道にいる奄美出身者の人口と、奄美島内に住んでいる人口というのは、比べてみると恐らく島外に住んでいる人口の方が圧倒的に多いと思うのです。各都市・地域で、奄美の場合郷友会(ごうゆうかい)という言い方をしますけれども、郷友会が活発に活動しています。それに加えて、先ほど申し上げたような同期会のような横のつながりを維持している若い世代の集団もあるわけです。そういう人たちが折に触れて、災害のときもそうですけれども、募金活動をしたり、あるいは、今はふるさと納税ですか、そういうもので支援をしたり、ひらとみ神社の場合には、確か昭和30年代に現在の東京奄美会が募金活動をしてひらとみ神社を再建するような活動もあったと聞いています。ですので、島内プラス島外からの働き掛けもかなり重要なのではないかなと感じています。
 さらに島外のネットワークというのは、シマ社会の延長のような役割も果たして、言ってみれば、奄美地域、奄美社会が日本各地にディアスポラをしているような状況として捉えることが出来ます。地域、シマ、島に限定されている奄美というものだけではなくて、地理的空間を超えた奄美というもので、現在の奄美社会というものが支えられていると考えることができるのかなということを、先生のお話を伺って改めて実感しました。
 次に加賀谷先生のご発表ですけれども、親族研究史の流れの中でも、特に親族への関心が構造から過程に移った、モダニズムからポストモダニズムへのパラダイムシフト以降の親族研究に位置付けることができるご発表だったと理解しております。その上で血縁ではない関係性による、小池先生や出口先生は「多元的な」という言い方もなさっていますけれども、多元的な親族関係の可能性をケアという領域につなげた貴重なご発表だったと感じております。あと、発表いただいた事例の中には看取りに際して、解決法を模索する家族同士の姿というものも描かれていましたけれども、村松先生のご発表にもあったようなもめ事との共通点もあり、伝統的な規範が重視されつつも、その解釈には個々人の意思も反映されているということがとてもよく分かりました。
 発表のまとめとしては、儀礼的、象徴的空間で看取ることによって、現地の死生観、世界観に、ケアを担うスタッフたちの実践を帰結させる状況についてご説明いただけたというふうに思っております。とてもフレッシュな事例をご説明していただいて、これからまたいろいろな議論につながる内容だと感じました。  その中で、これからのその議論につなげていくための一つのヒントとなるような質問をしたいと思います。本当に短い時間の中で発表していただいたことですので、おっしゃっていないことたくさんあると思うのですけれども、私の本当につたない理解のもとでの質問だということを、ご承知おきいただければ幸いです。
 二つ伺いたいことがあるのですけれども、まず一つ。スタッフが自宅での看取りを勧める状況についてご説明していただいたわけですが、もちろん儀礼的象徴的空間に還元させるということも十分あるのかなと思ったと同時に、「すむづれの家」がやはりサービスである、制度の中のシステムであるということも重要なのかどうかということも思いました。つまり、制度なので自宅で看取るということを勧める、そういう状況はあるのかどうか、ご存じである状況があれば教えていただきたいと思いました。
 もう一つですけれども、ケアなさっているスタッフの方々が地元の伝統的な考え方に則したような看取りを提言するということに際して。ご発表のレジュメの中では、ある種、無自覚とも言えるような状況で行われているとご説明がありましたが、ご紹介くださった事例などを見ているとやはり地元との交渉、在来在外の価値観との交渉というものが見え隠れするような状況がありました。それが果たして無自覚なのか、あるいはある程度自覚をして選択をしているという状況なのか、そのことに関してもう少しだけお話しいただければありがたいなと思います。取りあえずは以上です。

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全体討論

(深澤) 四條さん、ありがとうございました。それでは、発表者全体に向けられたコメントもありますし、あるいは各発表者に向けられたコメントもありますので、今日の発表順にお一人ずつ。最初に、村松先生から。

(村松) 國弘先生、四條さん、ありがとうございます。ちゃんとお返しできるといいのですが、國弘先生に頂いた質問、コメントとしては、「沖縄の」という形容が妥当かということがまず一つと、あと日常の生活の場と沖縄という調査地というか、フィールドとの間、そのブランクについて、関係者との関わりについて、どういうことを考えているのかということの二つで合っていますか。
 私は、沖縄のフィールドワークをさせていただくようになってからこんなにたってしまっているのですが、しかしながら、沖縄だから沖縄をフィールドワークしているという感覚があまりありません。そういう意味ではよろしくない研究をしているのかもしれません。というのも、沖縄の特殊性を明らかにしようとして沖縄をフィールドワークしているというよりは、元々その土地の染め物のことから始めましたので。そこの土地の固有のことではあったのですけれども。しかも沖縄らしさというところで引っ掛かってフィールドワークを続けていたのです。しかし、沖縄の特殊性にはこだわっていなくて、ただ、今、そこにあるという意味での、沖縄で実際に暮らしている方たちから見聞きさせてもらえるという家族の問題というところの視点というか、切り口で、今日のお話は持ってきたつもりでおります。そういう意味では、どういう視座を持ってくると他の土地とつないでいけるのかということを今は申し上げられないのですけれども、私としてはそういう考え方でおります。
 日常と調査地とのブランクについてということですけれども、私が主に関わっている人たちは年配の方たちが多いというのもあって、そういう意味では携帯電話も使えないとか、家の電話でやり取りとか、お手紙を書いてやり取りとか、FAXが使えるとか。そういうレベルの方も多分にいる一方、80代でもSNSを使える方もたくさんいて、お若い方たちもいるので、そういった意味では地続きというか、本当に地面とはまた別の形でブランクなくつながっているという感覚もあります。家族的な意味での関わりももう20年超えていますので、冠婚葬祭的な意味で、そういう場に呼ばれたりとか関わったりとかという意味で、親族のように扱っていただいたり、私もできることをさせていただいたということはあります。それが、地理的に距離のある方とどこまでずれがあるのかは、私の経験からはあまり申し上げられないのですが、そういった視点でおります。
 四條さんから頂いたコメントですが、「想いを共有する」というところで、家族の困り事を解決するという読み手、まさにそのとおりだと思うのですけれども、祖先祭祀に関する互酬関係というものがあるというふうに読んでくださったのですが、そこで誰が何を受け取るのかということが一つ問題になっているというのも、おっしゃるとおりだと思います。
 私に頂いた質問としては、多宗教的な状況があるという中で個人の主観というものがどの程度意識されているのかということだったかと思うのですけれども、公的な言説というのでしょうか、学校教育も含めていわゆる公の場でのユタの排除とか、ユタ嫌いということは一つ大きいのかなと思うのですが、クリスチャンの方たちも多いという話もしたのですけれども、そのクリスチャンになるということと、祖先祭祀に関連することを行うということをものすごく厳密にきっちり区分しているおうちと、「年中行事だしね」と言って。自分はクリスチャンですけれども、沖縄のことは沖縄のことというふうにして、ものすごく家族の集まりとみて、クリスマスパーティをするみたいにお盆にも集まる、お正月にも集まるという形で祖先祭祀をしている方と、結構、両方あるかなと感じているのです。
 そのキーは、一つはお嫁さんという立場なのかなと思っています。私がお話を伺っている中でも、長男、男の子を出産できた人とできなかった人というところで、拒絶というか、拒否。伝統的な祖先祭祀を拒否する一つの、ある意味正統的な手段として、自分はもうクリスチャンになってしまうという。要は、そこから下りるというか、外れるというか、そういう立場を取っている方が、婦人集会みたいな小さい、週に1回、数人の集まりがありますが、そういうところに継続的にお邪魔しているといるように感じらます。あとは障害のある家族をお持ちの方が、何かしらの事情で親族の支援がうまく受けられない。要は、その子は恥ずかしいとか、その子は見せたくないとかということがあったときに、クリスチャン、教会だったら一緒に連れて行っても一緒にいる場があります。週に1回、日曜日に教会に行って、隠さないでいいとか、その人をそのまま受け止めてもらえるという形で、嫁としてもその子供を、その人にとって子供ではなくても思う人でもいいのですけれども、お姉さんとかそういう方の場合もあるのですけれども、どのように社会的に認知を受けられるのかというところで、何か、個人の意識というふうに、意思というふうに、あるいは主観というふうに言えるのか分からないのですが、そういった形で意識されているのかなというふうに、私がお話を伺っている限りでは感じております。
 ありがとうございました。

(深澤) それでは続いて、山内先生、お願いします。

(山内) 國弘先生の中の、要するに沖縄らしさというのを、沖縄は近いから、インドと違って行ったり来たりする間に、われわれが描いてしまったものを向こうに影響を与えてしまうのではないかと。これは僕もいつも感じていたところですし、できるだけそうならないように。ただ、一昨年か、1年住んだかな。それから去年も30回ぐらい、実は通っているのですけれども、行けば行くほどそこに同化するかというと、逆に教えてくれなくなって。自分自身も。やはり遠く、たまにインドに行った方が向こうの人も一気に、ばーっと話してくれるのではないかなと思うのです。最近、近場の沖縄は、普通に行っても全然相手してくれなくなってしまうので。そういうふうに距離の問題ではないような気がします。
 でも、今のご質問には、大事なところもあって、僕は「沖縄の消費過剰」と呼んでいるのですけど、本日、配った戦争の「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」資料の一部は、ドキュメンタリー映画祭に出すための冊子です。琉球弧を記録する会により島言葉(方言)のみで100人の沖縄戦の戦争証言がまとまられた映像資料の一部です。2005年頃の話です。この制作のお手伝いした頃、一番言いたかったのは、あの頃も、今も、地域の沖縄にとって、やまと人が原郷を求めるとか、文学的な何か魂のふるさととか、解釈され、果ては沖縄文化を植民地的に消費することへの危惧です。もはや現在の沖縄人はそれを拒否する。だから、私は、マブイがそこから放出されているとか、そんな文学的なことは言いたくないし。
 それで、もう一つ四條さんの質問で、今、確かに戦争の体験をした人たちが亡くなっていく時期で、去年からひめゆり資料館で始まっている、学芸員を中心にして、修学旅行生が聞くだけではなくて、大学生が、これは今年も全国的に募集していていますが、ドイツのナチスのゲットーの問題を扱ったドキュメンタリーの映画監督を呼んできて、沖縄で集まって4泊5日で、それで各戦跡とかを撮らせて、それをYouTubeにアップするのですが、本人たちにその知識を共有させるのです。記憶だけではなくて。というのが去年から始まっています。
 その一環で、先ほどハワイの話が出ていましたけれども、かなり沖縄全体で動いているのは、ハワイのキャンプ地へ送られた沖縄の人たちで、向こうで亡くなっている人たちがいて、骨が返還されていないというので、骨の返還運動をやっているのです。これは各市町村の署名が集まって向こうに送って陳情しているのです。それで、これが加賀谷さんの発表の中に記憶とか伝承となっていますが。今日は発表できなかったのですが、というのは発表できる資料がないというか、実は私の調査地の横に古いガマがあるのです。随分基地に占領されているので、飛び地があるので、あそこで結構、地元の方に聞き取りしている洞窟があるのです。洞窟というか、ガマが。そこはもちろん、この平和教育の場になりえます。そこの一家の中で、3人ぐらいあるのですけれど、その聞き取り内容は、まとまってもいませんが、米軍が上陸した日に。それで、その親たちも死んでしまって、要するに記憶を紡げる人が誰もいないのです。要するに、家族が消滅した。危機というよりか、その人たちの伝承もないのです。それで思ったことは、家族というのは、節目の出産とか結婚式とか葬式とか、その共有している時間というのはすごく大事なのかなと。それ以上、私は今日、この研究会では返せません。以上です。

(深澤) ありがとうございました。では続いて、石川先生、お願いします。

(石川) 國弘先生がお話しになった家族そのものが危機というのは、私は今日読まなかったのですが、レジュメの最後に「危機」というのを書いたのです。レジュメの中で私が危機として取り扱ったのは、家族の外にある状況、家族の外から影響を受けて、例えば人口が減って、あるいは災害が起こって、家族はそれに立ち向かう、ある種の対抗する機能を持った集団、あるいは組織というふうに見ているわけです。もう一方で、家族であるが故に起こる危機というのが随分あるだろう。少し極端な例かもしれませんけれども、これは素人の判断で、インドのサティーとか、ああいうものも、家族や結婚に関わる、それこそ人の命に関わるようなことも、今はないのかもしれませんけれども、それ以外にも現在の家族の中に内包する、例えば家父長制的な価値観や極端なジェンダーバイアスであるとか、いくらもあるでしょう。家族と危機というのを考えたとき、そちらの方が大きいかなという印象を実は持ったのですが、その話をしてもまとまらないだろうと思いまして、家族の外側にあるもの二つを取り上げた次第です。しかし、大変重要なご指摘であろうと思います。
 それから、四條先生にコメントを頂いた島の外からの力と、これは確かにそのとおりだと思います。実際に、郷友会というか島出身者の組織というのは住んでいる人の多分数十倍、数百倍に近いのではないか、そのぐらいあります。実際、大和村での例でも、今、働く場をつくるために電機部品の工場を誘致したわけです。これもやはり、シマ出身の人たちが村との合同でやりました。それから、相撲をとっている写真があるのですけれども、これは大和村の一番奥の今里集落の、1970年代に行われていた豊年祭の写真です。随分多くの力士が集まり、観客もたくさん来るのです。実は、今も同じぐらいの数の人たちが集まります。人口はもう数分の一にも減っているわけですが、この時期には東京からも鹿児島からも名瀬からもシマを離れた人たちが集まってそういうことが行われます。そういうことが多分、今住んでいる人たちの村を支えていこうという心につながっているのかなというような気もしています。大変的確なご指摘で、どうもありがとうございました。

(深澤) ありがとうございました。それでは最後に、加賀谷先生からお願いします。

(加賀谷) まず、國弘先生から頂いた沖縄の家族の特徴とは何かというご質問です。これをもし系譜関係とか、これまで沖縄研究はそれこそ親族研究と祭祀研究で始まったと言っても過言ではありませんので、そこにたどり着いてしまうと、多分、今日の発表会が逆転してしまうと思いますので、何かそれを超えた家族の在り方みたいなものを見いだしていきたいとは思っています。それで、「すむづれの家」を調査している次第です。とはいえ、沖縄の、発表の中では法人としての家ということも申し上げましたが、その法人としての家的な側面の中で、やはりすごく特徴的だなと思うのは、家の人が、つまり、家族が例えば先ほど社会的ハザードという言葉がありましたけれども、波照間島ではマラリアで家の人が全員死んだおうちがあります。しかし、そのおうちに縁類から人を後継者として入れて、屋敷を継いでいくというのは、いわゆる人類学である屋敷筋といいますか、そういう形で屋敷としての。要は血縁もない、多分、遠い親戚関係ではありますけれども、血縁もない所にそうやってぽんと人が入って祭祀をやっていくという、そういうことがあり得るということは、やはり一つ沖縄の特徴です。では、だからといってその先のご先祖さまがすごくこの人から始まってというふうに認識されているかといいますと、そうでもないのです。そういう、絶やしてはいけないという、ただそういう感覚の方が強いのかなと見ております。
 あと、先ほどから「同期会」という言葉が出ているのですけれども、逆の質問になってしまうのですけれど、それは生まれ年とは違うのですか。学年なのですか。

(四條) 学年です。何年度とかという。

(加賀谷) 逆に、生まれ年というものにものすごくこだわります。生まれ年で、「あんた、何どし生まれ?」と。逆に言うと、八重山では生まれ年の祝いということを盛大にするのです。その生まれ年の祝いのときに、先ほどから話のある外に住んでいる人たちがものすごく集まってきて、盛大に祝うのです。その生まれ年でのつながり、それこそ学年を超えた、ただ同じ巳年の人たちだけでつながっていくとか、そういう不思議なつながり方というのも一つ特徴かなと思っております。それは、家族とは直接は関係ないのですけれども。
 それから、四條さんのご質問で、後者の方は自分の中でまだ答えが見つかっていないのですが、最初のなぜすむづれで死なないのか、それはそこが介護制度の施設だからではないかというご質問です。それに関してですが、一応確認したのです。何か法律上、介護保険法上に、死に場所が違うことで何か手続きが違ったりするのかと。そういうことは一切ないと、「どこで死んでも、ここで死んでも、家で死んでも別に手続き上は同じです」と言われて、と同時に、「何で施設で死なないんですか」というか、「施設で亡くなるということが今までないんですか」と直接的にも聞いてみるのですが、「やはり自宅だよね」と。何と言ったらいいのでしょう。そこには、明確な説明ではなくて、何となく自宅といいますか、「やっぱりおうちですよね」という形で、そういう答えで、すごくこれだからこうしなきゃいけないとか、これですからという、そういう説明体系を持っているわけでもありません。それは介護の在り方にしても、先ほどのこういう理論があるからこれをしましょうというよりも、「何となく日々の中でやっていたよね」という、何か後から結果としての選択というようなところなのかなと思っています。

(四條) すると、二つ目の自宅とまでは言い切れないと。

(加賀谷) 私はやはり、言い切れないのではないかなと。ありがとうございます。

(四條) ありがとうございます。

(深澤) ありがとうございました。それでは、フロアーにも議論を開きまして、ここから自由討論に移りたいと思います。では、質問あるいはコメント等のある方は手を挙げていただいて、お名前とできれば所属を述べた上で、ご発言ください。それではどうぞ。

(越智) 立教大学の越智と申します。沖縄のお墓について研究をしております。山内先生と石川先生にお伺いしたいのですけれど、まず石川先生からです。私は沖縄の北部の方の、いわゆる限界集落とまでは言われていないのですけれども、かなり中山間地の集落維持がどういうふうになされているのかというのを最近調査しているのですが、その中で集落の規模を少し、今回例になさっている所をお伺いしたいです。というのも、同じく四国の中山間地で調査を行っているのですが、かなり集落規模が小さいですので、もう限界も早く迎えてしまうということがあるのです。例えば私が今調査している北部の安田だと、まだかなり規模が大きいですので、減っていっても、つまり役場がある周辺に家が固まっているということで、どうにか存続しやすいというような状況があるのですが、それは元々琉球王府時代に強制的に移住をすることによって集落をつくったという事情があります。それがこの地域の場合、奄美の場合はどうなのかということをお伺いしたいのが一つです。
 そして山内先生には、打越さんが例を挙げられていますが、もう沖縄の貧困率が3割以上、本土だと全体で18パーセントとかですけれども、それを上回る非常に大きな貧困率のことを考えると、ここで挙げられていたようなある種の社会的ハザードということの中で、枠でつくった一つのこういう血縁、地縁、年齢というのがぐるぐる回っているような、そういう一つの社会構造というのはもうないのではないかと。正直、すごい少数なのではないかというふうにすら思えてしまうのです。そのことについて少しどういうふうに思われるのか。つまり、結婚して、要は嫁が来るという形で、代々と壇家を続かせていくことができるのは、もうこれはもう現状無理ではないのかという状況を住んでいる方たちはどう思っているのかということ、それと起点として一つ戦争というのがあったと思うのですけれど、それ以前のそもそもの親族の門中の在り方というのはどういうふうになっていたのかというのを聞きたいです。
 すみません。質問が長くなってしまったのですけれど、私が調査している那覇の辺りだと、同じくやはり軍用接収を受けて強制移住をさせられているのですけれども、そこの地域の場合だと、次・三男はほとんどもう家を継げずに出て行って、どこかの家を継承する。あるいは、結婚できないという方が非常に多かったという記録が残っているのです。というと、やはりイナグガンスのところが数も結構多いのではないかと思われているのです。それが今では一つ規範から外れると言われているわけですので、逆にその戦前とかあるいは近世末ぐらいはどうだったのかということとやはり比較しないといけないのではないかなと思います。
 ということで、すみません。いろいろと長々質問しましたが、少しお答えいただけたらと思います。お願いします。

(深澤) では、山内さん、先に。

(山内) 前半の部分のヤンキーの登場。要するに、この人たちに祖先祭祀、僕はあまりインタビューしたことはないです。これは58号線沿い、キャンプ端慶覧から大体読谷近くまでの暴走族グループですけれども、それを見て、では先ほどの土地、血縁、地縁とか、この地縁の原理が今は生きていないのかというと、実はこれ、年末にもう1回、確認の電話を地元の方にしたのです。解答は、地元ヤンキーのパーセンテージは分からないけれど、やはり彼らは地縁の大切さほか、それを認めるということはないだろうと。沖縄の少なくとも読谷の地域社会では、やはりはぐれ者であると。それで、離婚してとか。少し気になったのですが、琉球政府のときは、要するにアメリカであったときは、アメリカの法律で、こちらから高等弁務官などが行ったりもしているのですが、ジェンダーも何かも比較的民主的に裁いたはずです。そうすると、この門中における例えば位牌(トートーメー)は女は継げないとか、これはどうなのかと訴えた人はいるのかと。これは、沖縄の知り合いの公文書館関係者に一般論として聞いたら、勝った事例はあまり聞かないけれど、勝った人もいるだろうと。女が離婚した後に財産を分けろと。しかし、それは大体よそに出されたと。要するに、「ものを知らない何とかもん」という沖縄の方言があって、それで、何か居づらくなっていたのではないかなと言っていました。
 これは本当に調べるためには、今度、那覇に行って、その裁判記録を全部見なくてはいけません。何パーセント勝ったのかと。あまり訴訟を起こしませんでした。それでさらに現在を質問したら、「確かに今はそれはもうない」と。当然。そういう法的なところの守りにより、どんどん門中慣習内の差別は崩れていっているのは間違いないと思います、門中制度とかそういうのは。門中の財産分割は、軍用地主も関わってくるとかなりの訴訟をしなくてはいけない額だとか、それは当然壊されていきます。では、戦前の門中はどうだったのかというのが分からない。系図は残っているけれども、墓とか位牌とかというより先に、門中の組織でどの程度、歴史の検証をしなくてはいけないかもしれない。越智先生の言っていることは、那覇とかの門中から、実は逆に起こっていったわけですよね。そういった質問ではありませんか。門中化現象みたいな。それは違うのですか。

(越智) それはまた、ここは私有地ですので。

(山内) 八重山では門中化現象をいろいろ分析したのですが、実は中部地域も門中化が始まったのではないのか、戦前でも比較的浅い時期に。というのは聞いたことがあります。首里にはもちろん門中があったかもしれませんけれども、いつごろから定着して。読谷村は大きな門中墓が有名だと思うのですけれども、いつごろからできたのかというのは、それこそ文書を読まないと分かりません。すみません。答えられません。とても。

(深澤) では、石川先生、すみません。

(石川) ご質問は大和村の集落の世帯か何かの規模ですね。大和村は、もう全部がいわゆる伝統的な集落11から構成されていまして、多いのは80世帯ぐらいです。このお話を伺って、多い方はあまり数を覚えていないですが、小さい方はよく覚えています。危機的な状態にあるだろうと思ったのは、私が40年ほど前に調査したとき、11世帯の志戸勘集落というのが一番奥から2番目にあります。それが、3カ月ほど前に私は行ったのです。そうしたら、そのときは、「5世帯だ」と言っていました。その集落内には売店は40年前からないのです。日常のいろいろなものは、その当時40年前は車やバスで売りに来る。そういう人たちが来ていましたが、今はそれも来ていないです。
 40年前にお世話になったお宅へ行きましたら、当時主婦だった方は百数歳で亡くなられまして、その子供たちが今は70歳前後ぐらいで、そのさらに子供がそこに3人住んでいたわけです。こういう質問はいけないなと思いながらも、「毎日大変でしょう」と聞いたら、「そうでもないよ」と言うわけです。何でそれが可能かといいますと、「必要なものは、電話すると持ってきてくれる人がいるから」と言うのです。「週3回ぐらい来てもらっていればそんなに問題ないだよ」と言って非常に悠々と生活しているのですね。多分、普通に考えて6世帯というのが、実は複数のメンバーがいる家族はそのうちの三つで、あとの三つは村営住宅に一人で住んでいるお年寄りなのです。しかし、その集落は確かにここにあったような、豊年祭のようなものはやらなくなってしまいましたけれども、日常の生活もかなり維持されています。多分、そういういろいろな形で、多分、どこかの売店が個人的にやっているのではなくて、親族的な関係があるのだろうと思いますが、そういう人たちが、多分、市街地から20km、30km離れているのです。そういう所へ持ってきてくれて、日常生活はかなり。それで困っているという様子はうかがえませんでした。ですから、それ以外の所も売店はどんどん閉店してしまって困っているように見えるのだけれども、決して日常、いろいろな所で行き詰まりを見せているということとは少し違うという印象を持っています。ただ、さらに進んだ場合どうかというのは分かりません。だから、小規模な集落でもかなり日常の生活は。それと、今、幾つか移住の方が入ってきて、そういう人たちとも協力し合っているのだろうという様子がうかがえました。以上です。

(深澤) ありがとうございました。では、時間の関係で、もうあとお二人ぐらい質問とコメントありましたら。では、外部の方、優先で。

(武井) 筑波大学で沖縄の、主に家というより、門中の祖先祭祀や歴史のことを研究しております武井と申します。質問は山内先生と村松先生にあるのですけれども、まず質問の前に、イナグガンス(女元祖)を避けるために戦争などで亡くなった女の子の位牌が父親の死まで建てられないというのは、私は不勉強で事例をよく把握していなかったのでとても勉強になりました。ありがとうございました。
 ところで質問なのですけれど、山内先生の発表はヤーニンジュの変容というところから始まって、最終的に『ヤンキーと地元』の引用で、シングルマザーの話まで来たのですけれども、ヤーニンジュの概念で考えますとシングルマザーのお母さんが連れ帰ってきた子供というのは入らないわけですが、しかしそういうものも受け止めるということも含めてヤーニンジュの変容ということを考えておられたのか、それとも話題提供として二つ挙がっただけなのか、そのあたりのことを伺いたいと思いました。

(山内) 端的に言いますと、シングルマザーの問題を考えたとき、ヤーニンジュというのは婚外子を含んできたから、社会学の研究者は、離婚率が高いとか沖縄の問題を挙げるけれども、考えたら昔から婚外子でも普通にいたから、ヤーニンジュが元々そういうものだからという論旨を張ろうかなと思ったのですが、まだ事例が少な過ぎると思ったのです。そんな昔の家族の伝統性が現代のキャバクラで働いているシングルマザーを受け止めているという、そこまでは、現在の事例からは、言い張れないと思っています。
 沖縄の、先ほど越智さんにも答えにくかった、打越さんは今度階層性の本を出すらしいけれど、沖縄はもう一つ階層ができています。金持ちと貧乏の、この問題はまだ解決していない。

(武井) ありがとうございました。もう一つ村松先生に質問があるのですけれど、ユタの話。これも沖縄の研究をしていますが、あまりユタコーヤーと出会ったことがありませんので大変面白く伺いました。聞きたいことは一人ユタを買う人がお金を払ってしまう、周りの人はレジュメにもあるけれども、過度な謝金の支払いを巡ってトラブルが起こるということがあるのですが、払っている人は過度な謝金という認識はないのですよね。その本人にしてみたら、「お金でこの問題が解決するのだったらいくらでも」ということに対して、そんなにお金を払ってという議論があり、全く違う価値観がぶつかってトラブルになるということだと思うのです。少しぼやっとした質問で恐縮ですが、そういう価値観のすり合わせというものは、家族間でした上で解決するのか、それとも平行線のままでいくのか、プラス何かあるのか、このあたりのことを、最後まで質問がつながらないで恐縮ですが、何かありましたら教えていただきたいと思います。

(村松) 武井さん、ありがとうございます。ユタコーヤーにあまり出会ったことがないというのは、多分年代、性別、ジェンダーとかの問題で、多分、随分違ってくるのかなという。私は高齢の特に女の人たち、おばちゃまたちの中にいることが多いですので、よりそういう話を聞きやすい。男性でまだ若くて現役でばりばりお仕事されている人とか、それ以下の方たちと出会うのであれば、出会わないことが多々ある。けれども、多分その人たちのことも、ご本人が知らなくても、祈られていたり、願われていたりするというのはあるのではないかと思います。
 ご質問が、謝金もそうですけれど、価値観のある種のすり合わせが可能かどうかというところだと思うのですけれども、本当にどうお答えしていいか分からないのですが、家族を思ってというところが共有できているという意味ではある種のすり合わせになっていると言えます。言い過ぎでしょうか。言えるのかなとも思うのですが、それこそ年金とか貯金とか田畑とかを売った少しまとまったお金が入りますと、それを本当に使い込んでしまうわけです。だから、先ほどのおうちの場合、娘さんが本土にお母さんを連れて行ってしまったのですけれど、そのときに介護保険とかのことも含めて完全に引っ越しして、お母さんにちゃんとお母さんのお金が入るようにして、もう全部別々にしました。そうしないとお母さんの分も使ってしまうからという状況があるのですけれども、実際一緒に生活している上では、「家族のことをやっているのだし」というのがあるけれども、本当にこの1万円を使われたら買い物は難しくなる、病院の支払いは少し待ってもらわないといけないよねということはあります。
 そうすると、まだこの年代の方だと子供たちがたくさんいる方が多くて、8人とかいるのですけれど、それで誰かしらかが何かしらの補充、手を出してくる、車を出してくれるとか、少しお小遣いを持ってきてくれるとか、孫でももうかなり大きくなっていますから、お母さんになっていますから、ちょっと持ち合わせてくれるとか、ご飯を作ってくれるとか、そうやってやりくりしているのを、それをすり合わせと言っていいかどうかは難しいのですが、お答えになりますでしょうか。

(武井) ありがとうございます。

(村松) ありがとうございます。

(深澤) ありがとうございました。今日はどうも5時間にわたる長丁場で申し訳ございませんでした。今日は本当にありがとうございました。

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