深澤秀夫「小さきもの好きの運命あるいはマダガスカルへの道」


 1982年乾季の雲の多いおだやかな朝、マダガスカル大学アンタナナリヴ分校文学部の学生登録に出かけてうろたえてしまった。登録料と社会保険料を納入する経理課の窓口が長蛇の列なら、登録そのものを受け付ける学部事務の窓口では押し合いへし合い、どこが最後尾なのかもさっぱりわからない。さらに学部一年生の授業が始まれば、守衛さんに教えてもらいようやく辿り着いた千名は入ろうかと言う大教室、はるか彼方で教授がマイク片手に一方的にしゃべり、後列の学生の一部は寝ていた。聞けば、アンタナナリヴ分校の学生総数は当時1万数千名、文学部だけでも2千名以上の在籍者を抱えるという。<マンモス大学>なる言葉をほとんどカルチャーショックをもって知ったのは、うかつにもこの時が初めてであった。そしてこの出来事は、自分がマダガスカル語の tia ny kely、すなわち「小さなことが好き」型の人間であることを再認識させてくれた。
 Tia ny kely、これはどうも学んできた大学と大学院の小ささによるものだけではないらしい。本人にはすこぶる楽しい幼稚園生活の記憶しか残されていない一 方、園長じきじきに様々な文句を頂戴していた周囲の人間は、私を協調性ゼロと断定しその行く末を案じたと言う。その結果、家からはだいぶ離れた小学校に通うはめとなってしまった。しかし学校から帰ると近所に遊び友達はなく、周囲の思いとは反対に、マンガと図鑑と小説に囲まれて、一人悦にいっていた。そんな中で、レースリーフなる葉脈だけでできたようなへんてこりんな水草がマダガスカルという島にあることを知ったのが、記憶の糸をたぐった最初の出会いだっただろうか。中学一年生に漱石の『夢十夜』を読ませたり、いきなり昨日読んだ本田勝一の『ニューギニア高地人』が面白かったなどと授業にしてしまう教師のい るような中学・高校では、さっぱり人気のない生物部で<エコロジー>の名のもとに荒川や多摩川の水生昆虫を分類し・計測し・アルコール漬けにすることに6年間血道をあげ、授業の内職からは、マルクスよりもシュティルナー、カミュよりサド、そしてロゴスよりもパトスを愛でる感性を身につけてしまった。レヴィ ストロースの『構造人類学』、レリスの『幻のアフリカ』、長島信弘の『テソ民族誌』の3冊が同じ頃出版されたことは、受験を前にした高校3年生の心を訳もなく昂ぶらせた。その当時全国で4つしかなかった教養学部ばかりを3つ受け、受験の調査書の愛読書欄に『聖書』と書く輩が少なくないと噂される大学に、先のシュティルナーの『唯一者とその所有』と書いて通った。
 その大学では、人類学の専攻学生に、「人類学原論」や「人類学学説史」と共に「人類学調査実習」を必修として課していた。実習で連れられて行った先が沖縄と奄美、生まれて初めて海を渡った。そこで、北方よりも南方、大陸よりも島に憧れる自分を発見した。沖縄関係の文献を読み進むうちに、バッハオーフェンを真に日本の歴史的また文化的脈絡に位置づけながらも夭逝した佐喜真興英と沖縄の慣習法研究を地道に続けながら一地方判事として生涯を全うした奧野彦六郎、二氏に格別の敬愛の念を抱き、卒論は奧野が晩年にミクロネシア研究の中から提唱した<同生地族>の概念を、社会人類学の脈絡に位置づけることを主題として選んでしまった。<同生地族>に類似の概念にG.P.マードックの主張する<ディームdeme>があり、この少し古ぼけた概念を、マダガスカル研究における<クラン>の再規定として積極的に援用していたのが、当時少壮の社会人類学者M.ブロックとその著作Placing the Deadであった。マダガスカルなる未知の遠い島が、急に輝きはじめた。
 アフリカの隣りにありながらアジア系の言語と文化をもつひねくれ方と意外性も小気味よく、島が遠方で日本人先行研究者の少ないことも壮快、「雑穀」とやらではない米が主食であることもサバイバル能力に若干不安のある自称シティ・ボーイの身には頼もしく、そしてたまたま本に載っていたミス・マダガスカルの女性の写真を素直に美しいと感じた。マダガスカルで調査したいしたいと面接試験で繰り返して大学院に入り、それから3年後の1981年の秋、マダガスカルで獲れた天然エビを運搬する冷凍船の甲板にたたずみうねりを眺めながら、1500年近くも前にマダガスカル人の祖先たちはなぜこんな島影もまばらな人寂しいイ ンド洋を渡っていったのだろうかと考えていた。

『アジア・アフリカ言語文化研究所 通信:新入所員自己紹介』
1993年第78号  p.25 を基に一部改稿

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