深澤秀夫「マダガスカルの村の20年」


1983年10月からマダガスカル北西部の一農村で、社会人類学の調査を行ってきました。村に足を運ぶこと20数回、1983年から1985年にかけての1年2ヶ月間の滞在から3日間ばかりの滞在まで、村に住んだ期間の総計は2年数ヶ月になります。よく日本人からあるいは都会に住むマダガスカル人からも「20年間でマダガスカルの農村はどのように変わりましたか?農民たちの生活は 良くなりましたか、悪くなりましたか?」との質問を受けますが、この問いに答えることはさほど容易なことではありません。  
この20年、調査地の村は、マダガスカルの一部地域で活発化しているダハル (dahalo)やマラス(malaso)と呼ばれる武装強盗団などの襲撃を受け住民が殺戮されたり村が焼き払われたりすることもなく、ゆるやかな景観的変化をとげてきたと言えましょう。350人から600人へと倍近い人口の増大にともない家の数が増え、村は確実にその面積を広げ大きくなりました。現在私 が調査期間中住んでいる家の建っている場所も、20年前は村外れの牛囲いの先にある草と灌木の生い茂った、時には村人たちの公衆便所ともなっていた丘の上です。また1990年代から村にも中央高地で行われていたのと同じレンガを焼く技法が入ってきて、プロテスタントやアドヴァンティストの教会をはじめレンガ造りの家々も増えてきました。1980年代は、木の柱と柱の間にはった枝の粗朶にそこら辺の赤土に水を混ぜてこねた泥を積み上げてゆく方法で、壁を造っ たものでした。今私が住んでいる家も、屋根はトタン板、壁はレンガで、その上にセメントを混ぜた砂を塗り、さらに漆喰が塗布され、2002年に完成したものです。村の小学校の屋根も、草葺きからトタン板葺きへと変わり、就学児童数の増加に対応し、教員数も1980年代の政府派遣教員1名から、現在では政府派遣教員2名、村雇い教員1名の計3名へと増えました。トタン屋根の長所は吹き替えの必要がない事に尽きますが、陽射しがあたった時の室内の暑さと雨季の雷雨が跳ね返る音の凄まじさは、たとえ寝ている時に屋根からムカデが落ちてくることがあったとしても、草葺きの屋根の良さを思い起こさせてくれます。  
家の建築方法や材質以上に変わったことと言えば、鍵が必須になったことでしょうか。20年前でも既に多くの家の扉に鍵が取り付けられるようになってはいましたが、まだまだフォンビ(fômby)と呼ばれるラフィアヤシの葉柄を薄く 削ったものを重ねあわせた簡単な板を戸口に立てかけているような家も珍しくはありませんでした。それが今では、どんな粗末な家でも、農繁期の出造り小屋でもない限り、扉と鍵は必需品となりました。村外から泥棒が侵入してくると言うよりは、10代や20代の村内の青少年たちが、盗犯の主体となっているようです。「近頃の若い奴らときたひにゃ、まったく困ったもんだ」と大人たちが、よくぼやいています。明日は我が家が荒らされるかもしれず、あるいは自分の息子 や孫が泥棒として捕まったり告訴されたりするかもしれないわけですから。  
村外に目を向けると、目立った景観の変化は、水田や畑などの耕地が増大して丘や山の樹木や森が減少すると共に、散播水田が移植水田へと変わったことでしょう。1983年から1985年当時は、ちょうどフィリピンの国際稲作研究所 IRIが開発した多収量品種のIR8号が村に導入され始めた頃で、それに伴い田植えと畦を造る湛水田が造成されるようになりました。当時、IR系の新品種 と移植法および湛水田造成を採り入れていた農家は、村全体の二割から三割くらいでした。その一方、過半数の農家は、緩斜面の上部にめぐらした導水路の所々 に水口を切り、そこから下方に向けて水を掛け流す独特の散播水田と赤米も多い在来品種の栽培を行っていました。それが今では、移植法と湛水田を採り入れていない農家は、村内に一軒もないような状態です。先の掛け流しの水田と散播と在来品種の組合せ稲作を行っている農家は、既に全体の一割から二割程度で、それも複数ある自分の水田の一部でそのような農法を行っているにすぎません。また、村内の水田にすることのできる土地はおおかた水田へと造成してしまった結果、最近では食料の足しにするマニオクイモ(キャッサバ)を植え付けた畑と町の市場や村内で売って家計の足しにする葉野菜やトマトやトウガラシなどを栽培 する菜園が、目立って増えてきました。  
在来品種の3倍にあたる3t/ha強の反収をさえ一時記録したIR系の品種は、1990年代後半には村で栽培されている稲全体の過半数を占めるまでに普及しましたが、密植、無施肥、種子籾米の無更新などの結果、病虫害が目立つように なり、それと共に反収も減少、農家のIR系品種離れを引き起こしました。現在では、水がかりが良くまた水位の調節の容易な水田を持ち、殺虫剤噴霧を行うこ とのできる農家を中心に、その反収の高さが評価され、IR系品種の栽培も続けられていますが、村全体としては、高収穫品種よりも早生品種を求める傾向が強 くなっています。と言いますのも、年々降雨パターンが不安定になっている中で、降水期を逃さず確実に収穫をあげるには、3ヶ月で登熟する早生品種の方が、 登熟までに5ヶ月から中には7ヶ月もかかる在来品種よりも、有利だからです。それと同時に、反収は低く成育は遅いものの、病虫害に強く、茎が強いため風で 倒れにくく、背が高いため水位の上昇にも耐え、食味の良い在来品種への回帰も生じています。ただし、赤米の在来品種だけは、とても美味しいと村人はこぞって言うものの、白米に比べ市場価格が低いため、ほとんど栽培されなくなってしまいました。  
調査地の村では、男女・長幼に関係のない兄弟姉妹間での相続財産の均分が行われ ていますので、新しい水田や耕地を入手しない限り、祖父の代よりも親の代、親の代よりも自分たちの代、自分たちの代よりも子供たちの代と、用益できる土地が世代を経る毎に狭小化してゆくことは、村人の誰の目にも明かな事です。そして現在村内には、新しく水田を拓くことのできるような土地はほとんど残されてはいません。家族当たりの米の収量の減少は、村内にある米倉の数の減少として目に見える形としても現れています。20年前は村の西端や東端には米倉が列を 成して建っていたものでしたが、今では収穫された籾米は各家の中に貯蔵され、米倉は気をつけていないと見過ごしてしまうくらいの数になってしまいました。 もちろん、米倉を破って中の籾米を盗む不逞の輩が横行を始めたことも大きな要因ですが、各自の家の空間に貯蔵できるくらいの収穫量しか得られないことが、 わざわざ米倉を造る労を厭う結果を招いています。となれば、限られた面積の水田からより多くの米を収穫しようとする欲求は切実です。まして、牛の売却を除けば、米の売却が現金収入の多くの部分を占めるこの地の村人たちにとって、米の収量の多寡は自分の生活水準を直接に決めることになります。  
水田の形も、畦の無い水を掛け流す緩傾斜水田から、畦を造る湛水田へと変わりましたが、水田と水田との境は、畦ではなく依然としてヴェロ(vero)と呼ばれるわざと刈り残された草むらによって示されています。この草むらを勝手に移 動させたり植えたりすることは、禁止されています。常に村の人びとの衆目監視の下で、草むらを新しく植えたり、あるいは動かしたりしなければなりません。一方畦は、毎年耕作のたびに壊され新たに作りかえられますので、境界の役目を果たすことができないのです。畦が作られた水田の中にも、点々と草むらが散在する様子そのものは、1980年代と少しも変わっていません。
直播きをしていた頃には、耕起から播種、刈り入れ、脱穀までの一連の稲作作業を 世帯間の協同作業として行うアサ・ライキ(asa raiky)の組織が、村中に張りめぐらされていました。けれども、IR系の品種と共に導入された移植法は、この協同労働組織を大きく弱体化させてしまい ました。なぜなら、移植法の導入直後こそ田植えも世帯間の協同によって行われていましたが、炎天下や時には雨にうたれながらの腰を曲げて行う長時間のきつ い作業であることが、互いの水田面積の違いによる労働力交換の対等性に対する疑問や不満を噴出させた結果、田植えが協同労働組織の対象となる稲作の作業過 程から外されてしまったからです。協同労働組織に代わって、田植えを遂行する大きな力となっているのが、賃雇いです。20年前にも田植えの賃雇いは存在し ましたが、当時の労賃の計算単位は、作業日数でした。それが今では、綱で測った5m×5m四方のカレ(kare)と呼ばれる面積を労賃支払いの基礎単位と するようになっています。しかしこの事は逆に、子供であっても大人であっても同じ面積の田植えには同じ労賃が支払われることを意味し、村を超えての田植え 時の労働力の移動が盛んとなりました。1月から2月の学校が休みの土曜日や日曜日には、子供たちが「田植えの仕事な~い?」と家々や村々をまわって歩いて います。   
20年前は、朝6時を過ぎて寝ていようものなら、あちらこちらから響きわ たってくるドスンドスンと地面を揺らす米搗きの音で、否が応でも目を醒まされたものでした。今でも、各家に必ず一つは臼と杵がありますが、毎日朝と夕に米 搗きをする家は少なくなりました。と言うのも、動力付き脱穀機が導入され、村人たちがそれを買うことができるわけではないものの、町に行けば「米搗きます」の看板が目に付き、乾季には牛車や貨物車に動力付き脱穀機を載せて村々を周り、米搗きを有料で請け負う商人なども出てきた結果、お金を払ってでもこの 日々の労働から逃れようとする村人たちが増えたためです。寝坊な人間にとっては朝寝を楽しむことができるようになったわけですが、7時頃まで寝ていたら、 「なんだ、あいつ病気か?」と言われる朝の早い村人の生活に変わりはありません。
水田稲作と並ぶこの地方の農家の大事な生業である牛牧畜については、この20年 間特に目立った品種改良や飼育方法の変化は、生じていません。一番大きな変化は、雨季の稲作の農繁期にキザーニ(kijany)と呼ばれる山裾に柵をめぐらした共同放牧場への牛の放牧を止めたことでしょう。このキザーニの柵の設営と保守作業は、乾季に村の共同作業として行われていましたが、この作業は村の 構成員である男性たちにとってかなり重い負担となっていた上、家族毎に飼育する牛の頭数に大きなばらつきがあるため、村の共同放牧場から受ける恩恵にも差 のあったことが、このキザーニの消滅に繋がったようです。この結果、農繁期の12月から3月の間も、村の近くで紐に繋がれて草をはむ牛の姿が多くなりました。1980年代には、スキを曳かせたりあるいは蹄耕に使うための役牛だけが、村内の牛囲いの中で飼われていたものでした。またかつては牛のワクチン接種 は、村の共同作業として、村のワクチン接種用牛囲いに牛を追い込んで上で、接種の終わった牛を若者たちが組み付くなど大騒ぎをしてにぎやかに行ったもので したが、今では注射器を持っている村人が各家族の牛囲いを回って接種するようになってしまいました。    
そして、上述のキザーニの設営作業をめぐるごたごたをきっかけに、私が調査を行ってきた村では、村八分が20年近く行われていました。事の起こりは、共同放牧場の柵の設営と補修作業の分担を期限までに終えなかった家族からは罰金を 徴集することが村の決まりに基づいて定められていたのですが、この罰金を課せられたある男性が、「他にも柵の分担作業を終えていない人間がいるのに、自分だけに罰金が課せられ、彼らに課せられないのはおかしい」と実名をあげて町の憲兵隊に訴え出た事でした。村内部での討議を尽くす前に、いきなり「お上に訴 え出た」この男性の行為には非難が集まり、この問題をめぐって開催された村の集会では、その男性と憲兵隊に訴えられた男性たちとの間で激しいやりとりが交 わされたと言います。その際、激昂した件の男性が、村人たちの面前で「あんたらは<犬の伴侶>だ!」との言葉を発し、人びとを冒涜したそうです。ちなみに <犬の伴侶>や<犬が祖先>などの言葉は、相手を最大限に侮辱する悪態として、調査地の人びとの間では受けとめられています。この言動に怒った村の人びとは、男性が牛1頭を殺しその冒涜の言葉を洗い流さない限り、男性とその家族を村八分にするとの処分を課したのです。冠婚葬祭も一切手伝わない日常の挨拶だ け交わすような状態が長らく続きましたが、90年代後半に件の男性が牛1頭を村に差し出して詫びを入れたため、村八分も解消しました。数年前にはこの事件 の張本人の男性も80歳代で天寿を全うし、盛大な葬儀をもって送られました。皮肉なことに、この男性が亡くなった頃を境に、事件の発端となった村の共同放牧場そのものが次第に立ち消えになってゆきました。  
では村八分が解消し現在村は平穏を享受しているのかと言えば、それにはほど遠い 状態にあると言わざるをえません。もめ事が増えた原因の一つが、人口が増えた結果、日常の些細な争いもまた増えた事です。今日も今日とて、村人の飼ってい る犬が、他の村人のニワトリを食べてしまう事件が発生しました。事がそれだけならば、ニワトリの代金分を犬の飼い主が弁償すれば済んだところですが、ニワトリを食べられてしまった村人の方が、「これまでにも家のニワトリが何羽か居なくなっている。それも、おまえのところの犬が食べてしまったせいだ。その分 も弁償しろ!」言い出したため話しが急にややこしくなりました。訴えられた犬の飼い主も、「一羽弁済するのは構わないが、その他のトリも家の犬が食べてしまったとの証拠が何処にあるんだ!」と負けてはいません。結局この件は、村の集会の場における二回の討議でも決着がつかず、町の裁判所に上訴する運びとなりました。二回の集会に招集されたあげく、結局成果なく終わった村人たちは、「あいつら、まったくいい加減にして欲しいよな。こんな細事でさあ」と不満たらたらでした。  
さらに、村が取り扱い裁可する事柄が増加したことも、近年の村の運営を難しいも のとしています。例えば、1980年代、山や丘に生える木々はラフィアヤシや特定の品種のマンゴーなど所有者の定まっている樹木を除き、たとえ村人でなく とも誰もが自由に、木々を伐採することができました。それが、人口が増え、炭や家具あるいは板の用材として樹木の需要が高まるにつれ、今では樹木も村が管 理する資源の一つとなりました。と言うことは逆に、盗伐に対する対策や処理などの問題を新たに村が背負い込んだことを意味します。マダガスカル全土で深刻 な問題となっている野焼きないし野火は、村にとっても重大な対処事項です。1990年代に野火をつけた人間に重い罰金が課せられるようになってからこの 方、村が管理する領域から火を出した事はまだありません。けれども、自分の村の領域から野火を出して他の村の領域内の作物等に被害を与えた時は、村がその 損害賠償金を支払わなければなりませんので、野火を見つけた時は、真夜中であろうが村人に非常呼集がかかることになっています。村人たちも伐採や野火によって年々樹木が減少し、ますます遠くの山までそれを採りに行かなければならなくなっていることをよく知っていますし、また政府からも植林指導の役人が ユーカリの苗を持って村までやっては来ましたが、植林への熱意はいまださっぱり盛り上がらず、ユーカリの苗もいつしか草に埋もれてしまっています。  
しかしなんと言っても、調査地の村の運営が困難をきたしている最大の原因は、人びとが共通に尊敬する長老男性がいなくなる一方、若年人口が増大し、何処にも鶴の一声のようなものが無くなってしまったことでしょう。村の集会の場では、村を構成する18歳以上の男女であれば、原則誰でも参加し自由に発言することができます。そして、調査地の地方ではフランス統治時代以前から、王様のような政治的・組織的頂点に立つ人間は居ませんでした。それだけに、村人たちが、自ずとその発言を認め受け入れるような人物の存在の有無が、村の運営の如何に 大きく影響します。では村人たちが<尊敬する人>とはどのような人物かと言うと、その村を拓いた祖先の男系子孫にあたる年長男性であることが、第一条件です。しかしそれだけでは、村人たちは、その人の発言を重く受けとめたりはしません。それに加え、思慮分別があり、人付き合いが良く、鷹揚で、子供や孫に恵まれ、そして財産を持っていることも、不可欠な要素です。どんなその村生え抜きの年長男性でも、貧乏である場合には、村人たちから通りいっぺんの敬意を払われ るにすぎません。1980年代当時は、私が下宿していた家の当主がこれらの条件を満たしており、当主を頼りに村の運営も比較的円滑に行われていました。その証しに、当時は、行政村との連絡役にあたる村長以外、ほとんど村の役職者と言うものがありませんでした。ところが、1990年代初頭にこの男性が亡くなると共に、村の運営は難しく時間のかかるものとなってゆき、現在では、行政村長以下、地区長、収入役、書記、評議員、巡察係など、10名以上の役職者がいます。それによって村の運営が滞り無く進むならばとりたてて問題もないのですが、村の集会の回数は増える、しかし何も決まらない小田原評定で終わることが 多い、挙げ句の果ては村の集会での裁決に納得せずに上訴することが増えるでは、村の運営についてあちらこちらで不満が囁かれることは避けられません。現在村運営の実質的な責任者である30代後半のまだ若い地区長が、先日村の集会が終わった後で私に向かって、「村の役職者って、孤独だよなあ。誰も助けちゃくれないからさ」とぼそっと自嘲気味に語った言葉が耳に残っています。  
「各家族ごとに井戸を持つこと」との村の定めができ、政府援助の井戸も一本掘ら れて井戸の数は増えたものの、乾季も終わりの10月や11月になると雨季の降雨の少なかった年には井戸が涸れ、飲料水や生活用水にも不自由することは、 20年前も今もさほど変わってはいません。村から歩いてゆくことのできる7kmほど離れた村に手術もできるキリスト教系の病院が1990年代に設立され、医療事情はそれなりに改善されましたが、現金収入の道の限られている農民たちにとって手術費用や薬品代は大きな負担ですし、入院患者の食事を含めた身の回りの世話は依然として、患者の家族や親族の人間がこれを行わなければなりません。赤ん坊や子供の混合ワクチンの接種は義務的に行われるようになりました が、マラリアが猛威をふるっていることも相変わらずで、3歳から10歳くらいの成長期の多くの子供たちのお腹は、脾臓などが腫れ布袋さまのお腹のように ぽっこりと膨らんでいます。またマダガスカルにもそれまで無かったコレラが、1997年頃から侵入して流行し、マジュンガ州(Majunga)やチュレ アール州(Toliara)では多くの患者を出しましたが、幸い村にまでコレラの流行は到達しませんでした。けれども、1980年代には存在しなかった砂ノミが1990年代半ば頃から流行を始め、こちらはすっかり定着してしまいました。この砂ノミ、1947年に東海岸地方を中心に起きた反フランス武装蜂起を鎮圧するために投入されたセネガル兵士たちが、マダガスカルに持ち込んだと言われています。そのせいで、砂ノミのことを、メリナ族の言葉では<アフリカ のノミ>と呼びます。村では、それまでいなかった砂ノミを、メリナ族の言葉でノミを指すパラッシ(parasy)と言う単語を用いて呼んでいます。砂ノミは足の裏の皮膚や爪の脇に潜り込む厄介者で、裸でそこいらの地べたにぺたぺた所構わず座る村の子供たちの中には、肛門にこの砂ノミが寄生して大騒ぎになっ た例もあります。  
それだけではなく、現在の村内での飲酒の頻度は、1980年代のそれの比ではありません。村内にもサトウキビの絞り汁や粗製糖水を発酵させたベツァ(betsa)と呼ばれる酒を飲ませる<酒場>が一軒できましたし、あるいはサトウキビの絞り汁から造った40度を超える強烈なただし法律上は非合法の密造酒である蒸留酒トゥアカ(toaka)を売る人たちもたくさんいます。1980年代 は、ツァブラーハ(tsaboraha)などの祝宴や正月でもなければ、そうは飲酒の機会もなかったのですが、今では乾季の農閑期には毎晩村内のどこかの家に集まり、人びとが酒 を酌み交わし、時に喧嘩を演じています。いかに酒が貴重だったかは、昔は作業中や作業終了後に酒を提供することを条件に田植えや稲刈りなどの農作業の協同 を依頼するランプヌ(lampono)と言う習慣があったこと一つからでもわかります。現在では農繁期の雨季でさえ、田植えなどの一日の農作業が終わると「疲労を取り除く」と称して酒を飲むことは、ごくあたりまえです。酒を飲むのは、男たちばかりではありません。酒の場に女性が居ることもありますし、女性 たちだけで集まって飲むこともあります。男も女も、大人も子供も酒を飲むのが、この地方の人びとの習慣ですが、このような飲酒文化が顕在化し加速していると言えましょう。そのためか正月やお祝い事の際などには、泥酔して暴力沙汰を起こす男性が後を絶たず、それにつれて暴力沙汰に対し課せられる村の科料も高 騰し、今では白米30kg近くを買うことができるだけの金額に達しています。  
このような飲酒の機会の増大は、農民たちの生活ぶりが豊かになった証しと言うよりも、米を含め椅子やベッドや机などの木工品、炭、レンガ、果実、野菜、家禽などを町や市場で売却し、現金を手にする機会が増えたことに起因するものでしょう。農民たち自身は、20年前と今の生活とを比べ、「教育や生活のいろんな事あるごとに現金を必要とすることが多くなったなあ」とか、「現金が無けりゃ、にっちもさっちもゆきゃしない」とか、「物は増えたけれど、その物がどんどん高くなるばっかり」とか、「人口は増えるし、使える水田はどんどん狭く なるし、暮らしは最近とみにたいへんになってきたなあ」と語り、生活の苦しさをこぼしています。20年前、乾季とはすなわち農閑期であり、それはまたお祝いやお祭りをしたり、そんな機会に親戚を訪ねたり、若い未婚の男女は配偶者を求めてあちらこちらの村を旅してまわる時でもありました。しかし今では、乾季 は稲作を行わないだけで、特に男は現金収入を求めて木挽きやレンガ焼きなどの出稼ぎに出る時期ともなってしまいました。村に残った男性たちも、レンガや炭を焼いたり、木工品を作ったりと、現金稼ぎに忙しい日々を過ごしています。  
現金取引の活発化は、地方の村や町で開催される市が増えたことに端的に示されています。20年前まだ国の看板は<社会主義>でしたから、この地方の農民の現金収入の大半を占める米の売買と流通は、農産物公社SINPAの手に委ねられ ていた上、米が価格統制品目に入っていたため、公定価格での売買、それも何時代金を支払ってくれるのかわからないような有様で、米を売って現金を得たくてもままならないような状況でした。かろうじて、二週間に一回開催される牛市が、活気を呈していたくらいでした。それが1986年以降米の売買は自由化され、各地で開催される市には社会主義時代以前と同じように米の仲買業者がやって来るようになりました。市で米を売って現金を手にした農民たちが、その場で衣服や食品や学用品や嗜好品などを購うわけです。現在ではだいたい30km四方に一つ、一週間に一回市が開かれる村や場所があるのではないでしょうか。また、中国製や東南アジア製の安価な衣服や布地あるいは生活雑貨が大量にマダガスカルに流入するようになり、農民たちの衣服もいささかカラフルになったように思います。20年前、村から町に行く道についている靴の跡は、私が履いていたサンダルの跡くらいのものでしたが、今では村の中の水田や畑に行く小道でも サンダルの跡がついています。とりわけ若者たちにとってスニーカーは、バッタ物のナイキであれアディダスであれ、大事なお洒落用品。靴を肩にかけたり頭に 載せたりして裸足で村を出発、町の端を流れる川で足を洗って田舎道の埃を流し落としてからおもむろにその大事な靴を履いて町に入る光景が、よく見られます。首都のアンタナナリヴで衣料品等を仕入れ、田舎で売る人たちも増え、県庁所在地の町の目抜き通りの道ばたは乾季の間、衣料品やら古着やら家具やらを売 る露天商で埋め尽くされています。昔は露店と言えば、ムスキータ(mosokita)と呼ばれる牛の串焼き肉を売る地元のおばさんたちか、首都のアンタナ ナリヴ(Antananarivo)からやって来たメリナ族(Merina)のエンタン・マディーニキャ(entan'madinika)と総称される衣料品や雑貨の商人に限られていたものでした。とりわけ自転車とラジカセの普及はめざましく、農村でも一世帯に一つはそれらのものがあると言って良いでしょう。1980年代、自転車とラジカセは、村内での経済的なステータスを示す小道具だったものです。社会主義経済失敗期の1980年代前半と比べ町の商店の店頭にもまた農民たちの家の中にも<もの>が増えた一方、生活が苦しくなったと人びとが訴える現在の状況は、「カヌーの上で咽が渇き、米倉の前でお腹が空 く」と言うマダガスカルの諺を思い起こさせてくれます。
現金が無ければ生活がたちゆかないとの認識はまた、生まれる子供の数を制限したいとの欲求としても表れています。20年前も、「あんた、子供が生まれなくなるクスリってえもん、持ってないかね?」と半ば興味本位で私に訊いてくる女性もいましたが、避妊の方法が農村にはなく、妊娠してから病院で中絶をしたり、煎じ薬の服用など彼らの伝来の方法で堕胎したりしていました。それでも、10 人や11人くらいの子供を生涯の内に産む女性は村の中ではごく普通でしたし、母親と娘が競って子供を産む様がしばしば見られました。しかし今では、子供を 3人から4人くらい産んだ女性たちからは、「避妊薬ないかね?無いなら、この次ぎ持ってきてくれないかい。これ以上子供が産まれちゃ、生活しちゃゆけないよ」としょっちゅう言われます。7km離れた県庁所在地の町に行けば、コンドームも売っていますし、公立病院の産婦人科に行けば、リングの装着や経口避妊薬の配布をも含め産児計画の相談も受け付けてくれるようになりました。けれども、安価にあがるコンドームの使用は、「そんなのつけたら気持ち良くないじゃないか」と男性たちからの協力が得られにくい状況ですし、またリングや経口避妊薬についての知識は、残念ながら村の女性たちの間では広く共有されているわけではありません。政府の鳴り物入りのAIDS(フランス語圏のマダガスカルではSIDAになります)撲滅キャンペーンの成果で、村人もAIDSなる死に至る病気が性交渉などを通じて感染することを知るようになりましたが、「で、AIDSに罹ったらどんな症状がでるんだい?」と私に訊く人が後を絶たず、さてどの程度の予防効果が上がっているのでありましょうか。      
村では、男女とも思春期を迎えると両親の寝所とは別の部屋で寝起きをするようになります。未婚の女性たちは、両親の寝所の隣りの部屋やあるいは別棟のことが多い台所の土間で寝ます。一方未婚の男性たちは、村内の空き室や空き家を見つ けて、そこで何人か一緒に夜を過ごします。このような未婚の男女たちだけが寝起きする部屋や家を、カズバ(kazovaha)あるいはクトゥラバハ(kotravaha)と呼びます。このカズバやクトゥラバハを、未婚の男女、とりわけ村外からの若い男性たちが訪問して夜の時を過ごすことは、村びとたちの<伝統>でした。ですから、男女とも性的な初体験を、10代半ばくらいまでにすませてしまいます。しかしこの事は、現代の社会状況の中では、中学生や高校生の父親や母親とその予備軍を量産すると言う結果を産みだしています。妊娠した女子学生が勉学を途中で諦めたり、あるいはかなりの費用を支払って中絶することは日常茶飯事です。妊娠させた男子学生の方も、女子学生の親から訴えられたり、養育費や中絶費用の負担を求められたり、あるいは正式な結婚を迫られたりと、若気の至りを口実に安閑としていられる状況ではなくなってきました。中学生や高校生たちに道徳やら良識やら自覚やら責任やらを説いても時既に遅く、4人の中学生と高校 生の男の子をもつある母親は、「コンドームを配っておかなかったら、何人孫が産まれるかわかったもんじゃないわ」と言って、処置無しとあきらめ顔でした。  
私の専門である社会人類学的に見たこの20年間の最大の変化は、男女間の性関係 と婚姻関係を禁止する間柄の範囲が、大幅に縮小したことではないでしょうか。調査地の人びとは、父方であれ母方であれ一人でも祖先を同じくする男女の性関係を、<災いを起こすもの>(mandoza)と呼んで忌避し、もちろん結婚も認めませんでした。そのような性関係を持つと当事者たちや親族が病気になっ たり、とりわけ特有のおできができると言われていました。村の人びとは、婚入してきた男女を除き、全員遠い近いはあっても何らかの親姻族関係によって結ばれており、本来は結婚はおろか性関係も持つことのできない間柄でした。ところが、親族関係にある男女が性関係を持っても、言われてきたような災いも病気も起こらない事が次第に人びとに広く知られるようになるに従い、1980年代には数例の性関係が村内で見られたにすぎなかったものが、今では性関係はあたりまえ、第三イトコくらいの関係からは公然と結婚する男女も珍しくなくなりました。さらには村内の結婚している中年男性が、同じ村の親族関係にある10代の女の子に浮気したりあげくは妊娠させたりする例も出来し、かつては考えられなかった事です。その一方40代以上のおじさんやおばさんたちの口からは、「今の若者たちは、相手を見つけに他の村に行くこともなくなって、手近に村内で済ませるようになっちゃったなあ。自分たちが若い頃は・・・」とそれぞれの過去のアバンチュールを懐かしむ言葉が聞かれます。  
2005年11月フランス各地でアフリカ・アラブ系移民の若者たちが引き起こした暴動のニュースを、村で調査をしている最中に、短波ラジオを通して知りました。そんな折りもおり、村では、フランスでの勉学や仕事を無事終えて帰ってきた子供たちを祝い、父親が牛1頭を祖先に対する願かけを行う石の所で殺し、村人たちにふるまいました。もとをただせば、その父親の父親が、昔その石のある場所で祖先たちに、「自分の子供や子孫が、病気以外で海外に行くことがあり、無事帰ってきたならば、その時はこの場で牛1頭を殺して捧げます」と願をかけたことによるものでした。暴動を引き起こした若者たちの中に、はたしてこのような父親や祖父をもった人たちがいなかったのか、そのニュースを耳にした時に、ふと頭をよぎりました。

『自然と文化そしてことば 第2号 インド洋の十字路マダガスカル』葫蘆舎
2006年 所収 pp.50-64 を基に加筆修正  


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