研究室で教室の他者を考える:インゴルドのラドクリフ=ブラウン講演を手がかりに 出口顯

研究室で教室の他者を考える:インゴルドのラドクリフ=ブラウン講演を手がかりに出口顯

はじめに

 フィールドサイエンスにおける「他者理解」の可能性というテーマで話さなくてはならないが、このテーマをフィールドワークする研究者にとって「フィールドにおける他者理解」はいかに可能かを問いかけるものと受けとめてみると、それは、社会・文化人類学で繰り返し語られる根本的問いかけといえる。しかし、それは答えのない問いであって、それ故に幾度も違った観点や問題意識から語り継がれてきた。
 ここで、今ややひねくれた観点からこの問いかけそのものについて問いかけてみたい。そもそもこの問いを要請した学問はどのようなものなのか。社会・文化人類学がフィールドサイエンスであり、問いが社会・文化人類学から発せられたことは自明であろうが、その場合の人類学とは、人間とその文化とは何かを一般的普遍的に追求する社会・文化人類学なのか、それともいわゆるフィールドワークをして詳細な記録を残そうとする地域研究的な民族誌なのか。
 次にフィールドで他者をどのように理解するのかと問いかけるとき、調査者とインフォーマントは異なる社会・文化に属するゆえにお互いに「他者」であると想定しているようにみえる。しかし、調査者が自らに極めて近い人々の世界をフィールドとした場合、このような問いかけは発せられるのだろうか。さらに、フィールドの人たち同士は、同じ集団に属するゆえに「同一者」であり、「他者」にはならないのだろうか。
 タイトルはそのことを意識している。「フィールド」にいるより、学生と接する時間がはるかに大きくならざるをえない現状で、同じ文化に属しているはずなのに学生は他者と化して私の現前にいる。彼らにどう接するべきか。日常生活でのこの課題を先ほどの主題への問いかけとからめたとき、何か見えてくることがあるのではないか。
 そのとき、考えるためのきっかけを与えてくれたのがティム・インゴルドの論文である。

ティム・インゴルドのラドクリフ-ブラウン記念講演

 イギリスの社会人類学者ティム・インゴルドは、2007年のラドクリフ-ブラウン記念講演で、ラドクリフ=ブラウン(以下R-B)の社会人類学観を手がかりに、R-Bを部分的な擁護しながら人類学の今日的あり方を再考している。今更言うまでもないが、R-Bは社会人類学を「比較社会学の一部門、理論的法則定立的研究」と規定し、「個性記述的、現存する人々の直接観察に基づく」民族誌学と対比した(『未開社会における構造と機能』p.7,9)。それに対して、エヴァンズ=プリチャード(E-P)は、有名なマレット講演で、人類学は法則定律的な科学ではなく個性記述的な歴史科学に近いのだと批判した(「社会人類学、過去と現在」)。しかし個性記述的にとどまるなら、民族誌を残すこと以外に人類学には何も残されていないとインゴルドは言う。彼のE-P理解には問題があるものの、この点には賛意を表したい。
 E-Pの10年後に、これも今更言うまでもないことだが、エドマンド・リーチは、当時の民族誌学化した人類学の傾向を批判し比較と一般化の重要性をあらためて説いたが、R-Bの比較についても蝶々の標本分類のようなものと揶揄するだけでなく、有機体になぞらえたその社会観も批判した。リーチは社会を有機体とみなすのではなく、機械のメカニズムを調べるような社会のメカニズムの一般化を求めるべきだと主張した。
 これに対してインゴルドは、R-Bを擁護する。人間社会を有機体に喩えたのは、プロセスの哲学への関与の表れなのだ。「社会人類学者が関心をもつ具体的現実とは、いかなる類いの実体でもなく、プロセス、社会生活のプロセスである」(『構造と機能』p9、訳文は変更)。有機体に喩えられるのは、実体としての社会ではなく、プロセスとして理解される社会的「生」(life)なのである。R-Bが導き出したのは、ライフプロセスとしての社会という観念であり、だからこそ、社会生活をリーチのように機械ではなく有機体の働き(functioning)に比較したのだ。こうした生において、かたち(form)ははじめから特定化-固定化されているのではなく絶えず生成するものであり、万物流転説をとなえたヘラクリトスにもR-Bは言及しており、その意味で社会的現実とは「歴史的」であることをR-Bは理解していたとインゴルドは言う。
 しかし擁護はここまでであり、人類学の研究の進め方に話が及ぶとインゴルドは批判に転じる。R-Bは、フィールドがすべてではなく、体系的比較のために(armchair)の余地を社会人類学が残しておくべきだと主張する。しかしインゴルドは、書斎とか安楽椅子とは、周囲の世界との感覚的接触から研究者を完全に絶縁するものであり、座業によるひきこもりという保護膜で研究者を被うものにほかならないと批判する。R-Bの立場では、知るためにはその知識を求める世界にいることは決してできないというパラドックスが出現することになる。これをインゴルドは、安楽椅子内存在(being-in-the-armchair)と世界内存在(being-in-the-world)の対立として表現する。
 ではインゴルドの考える人類学の営み方とはどのようなものなのか。それは書斎にいて行うようなstudyofではなく人々とともに作業し研究するstudywithなのである。「共同の活動の場としての環境に人々とともにどっぷり浸かり、[人類学者にとって]教師となり仲間となる人々のすることを見て聞いて触れて学ぶ」ことが人類学なのであり、「人類学教育はそれゆえ世界(人々や社会)についての知識でわれわれを充たす以上のことをする。人類学はむしろ世界についての我々の知覚(perception)を教育し、われわれの眼や精神を存在の他の可能性に対して開くものなのである」(p82)。世界とその住人、人間と非人間が、われわれの教師であり、指導者であり対話者であるという意味で、人類学とは、戸外に出る哲学なのである。
 この例としてインゴルドが紹介するのは、アメリカの著名な心理人類学者アーヴィング・ハローウェルによる北米先住民オジブワの研究である。夢についてのオジブワは次のように語っている。夢で見る世界は覚醒しているときと同じ世界だが、夢の中では、鷲や熊のような別の生き物の動きをしながら、世界を別の眼や別の感覚で知覚することになる。そして目覚めた時には以前より賢くなっている。つまり人類学をすることとは、Ojibwaのように夢をみることである。そのためにはオジブワの体験とわれわれの体験、覚醒時の体験と夢の中での体験が対照される。その意味でインゴルドの言う人類学の企ては、比較である。そして比較の対象は、存在様式である。「別の存在様式(alternative ways of being)があり、ある様式から他の様式に変わる可能性がいつでもあることを絶えず承知していることが、人類学的態度を規定する」(p84)。人類学には、すぐそばにある、見知らぬものへの感受性が求められる。この感受性を人類学は芸術と共有しているといえるし、共有していなくてはならない。
 そしてインゴルドは社会学者ミルズの表現を用いて職能(craft)としての人類学を標榜する(ミルズ『社会学的想像力』p257)。求めるのは別の生き方(存在様式)なのだからミルズの言うように仕事を生活から切り離すべきではないのであり、人々が住まう世界を間違っても「フィールド」などと想像すべきではないのだ。この点も同感である。「フィールド」とは、民族誌学者が書物で記述するためにそこから離れて背を向けた世界であるといえるならば、民族誌とは、常識とは逆に書斎での記述であり、study with では なく study about なのである。
 要約すれば、「人類学とは世界における人間の生の条件や可能性を探究することであり、民族誌の書き方の研究でも、観察から記述への移行に伴う内省的諸問題の研究でもない」(p89)。
 このように人類学を考えるなら、これまでの人類学者の学生とのかかわり方はスキャンダルだとインゴルドはいう。本の謝辞で感謝されることのめったにない学生は、これまで、人類学的知識の単なる受け手とみなされてきた。しかしそれは、世界に住まうもの(native)をインフォーマントとみなす認識論と全く同じものである。インゴルドの考える人類学は、学生とともに学ぶ研究studywithstudentsでなければならないのだ。ではそれは具体的にどのように実践されるのだろうか。

風を感じる:インゴルドによる学生とともに考える実例

 人が世界の中に住む(inhabit)とはどういうことか。インゴルドは生態心理学者のJ.J.ギブソンの概念を批判的に検討する。ギブソンは自然界と環境を区別し、後者は、住民にとって周囲の状況や雰囲気としてあるような、そこに棲む様々な生命形態とのかかわりで初めて存在するものと規定した。環境は媒質(medium)・物質(substances)・面(surfaces)からなる。媒質は空気のように運動や知覚を可能にするもの、物質は運動や知覚に抵抗するもの、表面は媒質と物質の境界である(『生態学的視覚論』p17)。
 しかし空と大地の境である地平線は境界ではなく、人とともに動き、到達も横断もできない。空も同様である。空の下での生活は、従って境界によって囲い込まれたものではなく、開かれたものといえる。
 このようにギブソンは環境を開かれたものとして捉える視点を提示しながらも、しかし開かれた環境は決して実現できないという。環境は物質で塞がれていて、部屋に家具が据えられるように、物質が棲むことを可能にする環境にも物質が据え付けられている。行動はそのような環境で可能になる。しかし雲のない空は、「何もない(empty)」故に行動が可能にはならない。だとしたら人々は、空に背を向け空の外に住むexhabitantということなる。
 われわれは確かに開かれた環境にいるのに、ギブソンは自らが定義した媒質・物質・面によって、それを不可能なものにしている。
 しかし例えば地上の火は物質ではなく、燃焼というプロセスの発現形態であり、空の雲も空の天候の移り変わりの一現れと捉えるべきではないだろうか。静態的で固定化したカテゴリーとしてではなくプロセスとして環境を捉えるべきだという議論をインゴルドは展開していく。
 開かれた世界には内/外の別なく、往来(coming and going)があるだけである。呼吸を考えてみよう。呼吸は生命の維持の一端を担うが、空気を取り込む吸気において、風(空気の動き)は息になり、一方呼気では、息は風になる。animateはラテン語のanimare(生を与える)と、anima(息)から、そしてそれらはギリシア語のanemos(風)に由来する。環境を構成する媒質である空気の往来する動きすなわち風が息と生命の動きあるいはリズムと結びつくのである。この動きは、(息をする人間も含めた)物質が媒質との間につくり出す境界に妨げられてはいないし、そもそも人間が息をして環境の中に住むことが可能なのは、物質が環境に備え付けられたからでもない。
 にもかかわらず世界を物質が設えられた閉じた空間のようにイメージするのは、研究者が書斎という閉ざされた空間の中で、それをモデルにして世界を考えているからである。しかし人々が住まうオープンな世界は、(息=風の例からわかるように)彼らの周りで絶えず生成するプロセスとしての世界である。そのとき、媒質は静止していないでたえず流動している。媒質の典型である空気は動いて風車を回し帆船を進める。つまり風が生じているのである。しかし「風がある」ことをどのように語ることができるのか。
 インゴルドはこの問題を大学で天候(weather)と土地の関係で討論しているとき学生たちに投げかけ、屋内の討論と戸外でする討論の違いを検証したくて、インゴルドはアバディーン大学の学生と春の田園風景の中を散歩した。時折雨がぱらつきながらも明るい日差しが注ぎそよ風が吹いていた。「微風に触れることはできなかったが、しかし外気にさらされた顔にそして息づかいに風を感じたとすぐに学生が認めたように、そよ風が吹いていると私たちにはわかった」(ibid.:S29)。
 戸外に出て学生とともに、触れることができないのに風があるのを感じることができたのはどうしてなのかを考えるということ。それはインゴルドがラドクリフ=ブラウン講演で言っていた人類学の実践といえよう。この学生たちとの戸外での討論を踏まえて、世界に住まうとはなによりもまず風という流動を感じることであり、感じること・感覚があってこそ触ることができる。メルロ=ポンティにも言及しながら、感覚とは、触られる客体としての物質と触る主体としての知覚者が分離する前提だとインゴルドは説くのである。「はじめに媒質ありき」なのである。

インゴルド批判

 人間が周囲の環境をどのように知覚しどう関係を結ぶかを人類学の主題として考えるというインゴルドの主張に基本的に、共感をもつことをまず述べておきたい。少なくともそれは、モーリス・ブロックが描き、日本も一部がその影響化にある最近のアメリカ人類学よりはるかに好ましい(Bloch 2005)。しかし、この試みに諸手をあげて賛成することはできない。インゴルドは study about ではなく、study with というが、より根源的なのは、言語による分節化・二項対立の差異化とそれを体現した書物ではないか。オープンな世界、媒質の根源性という理解は、自身の体験を踏まえているにせよ、それが重要な問題提起になり得るとわかるのは、メルロ=ポンティを読むことによっている。study about が study with に先んじているのである。またそもそも、屋外で風を感じてここちよく思うのも、皮膚レベルで、淀んだ空気/流動する空気という二項対立的処理を踏まえてのことであるはずである。オジブワの夢語りも、夢の体験そのものではなく、夢の再現・解釈という常に既に言語化を施されたものである。
 インゴルドは、内/外といった固定的な二元論的思考を批判しているにもかかわらず、
安楽椅子内存在を世界内存在と対立させている。構造主義的二項対立を批判する者によくあることだが、批判する当のものを裏口からこっそり招き入れるといえよう。考えるべきは安楽椅子内存在が世界内存在でもあるという可能性ないしは現実のあり方ではないだろうか。
 しかしそれよりも問題なのは、学生との関わりである。何を学生とともに考えるのか。「学生とともに」とは、学生の発した学生たち自身についての問いといえるのだろうか。インゴルドの学生(学部最終年度の学生と大学院生が少し, Ingold personal communication)は彼の期待するように感じてくれ発言している。しかし、戸外(1940年5月、ルクセンブルク国境に近いマジノ戦線)でタンポポの白い綿帽子を見て構造の原理を着想したレヴィ=ストロースや、インゴルドがよく引用する「形式、実体、差異」の中で次のように述べていたベイトソンのような学生は想定されていない。

ワーズワースが歌った「川辺に咲いたサクラソウ」が美しいのもその外観(すがた)を形成する差異の複合体が、情報処理の過程、すなわち思考によってのみ得られる
ことにわれわれが感応するからです。われわれの外にあるわれわれ自身の精神(こころ)の中にもう一つの精神(こころ)が見出される、ともいえましょう(「形式、実体、差異」)。

 またインゴルドとともに春の野に散歩に出かけた学生は、彼の講義が理解でき討論できる学生、つまりインゴルドと対話できる学生である。しかしこうした学生との場面は私には想像しにくい。以下、このことについて考えてみたい。

他者としての学生

 私にとって、今学生は、同じ日本社会、同じ大学に属しながらも、理解困難あるいは馴染みのない他者と化している。私の世代では、授業に出席しなくとも大学生は自分で勉強するものであった。しかし近年では出席しない学生がいたら「ひきこもり」や成績不振者のおそれがあり、懸念される。熱心な学生ほどまじめに出席しているのがふつうであり、もはや「ほっといても大学生は自分で勉強する」ではすませられない事態になっている。欠席の目立つ学生に関しては保健管理センターと連携して、カウンセリングを依頼し、場合によっては保護者に指導教員が連絡することになる。このような学生は指導学生5,6人の中に必ず一人はいる。
 しかし出席している学生に問題がないわけではない。初年時教育や学士力の向上の必要性が説かれているように、基礎的な日本語の文章が書けない学生がいる。そのため「段落のはじめは必ず一文字分下げる、一文一段落ではない、段落と段落の間は一行空ける必要はない、インターネットからコピー・ペーストを繰り返してつぎはぎだらけの文章をつくらないこと、主語と述語が対応する文章を書くこと」などの指導をすることになる。安易なコピー・ペーストによるレポートが目立つので、原稿用紙に手書きのレポートを提出させるときは、「行の最後でかっこつきの文が終わる場合にはかぎかっこと句点を同じ枡に入れること」という小学校のような注意をしなくてはならない。それとは逆に知識欲旺盛で読書量も膨大であるのもかかわらず、論文・レポードが書けない「学習障害」の学生もいる。
 また卒論指導の場合でも、自らの力で論文を構想する能力が乏しく、こちらの指導に全面的に頼っているとしかいいようのない学生もいる。そのような学生が大学院へ進学したいという希望を持つこともある。
 専門の学生ではないにしても授業を通じて顔を見知っているにもかかわらず、廊下ですれ違っても挨拶してこないのはごく当たり前の現象である。保健管理センターの医師が6年前話してくれた事によると、学生の精神年齢は実年齢の七がけと考えた方がよい、だから中学生がきちんと挨拶できないのは当たり前ということになる。
 以上のような事態であるから、大学生とは、高等教育レベル以前の教育をほどこさなくてはならない「監視」の対象なのである。こうしたことが、学生が他者と化していると感じる理由なのであろう。これは私だけの経験ではない。学生が退学するとき、先生方が自分のことを構ってくれなかったと恨めしそうに言ったのが衝撃だったとかつての同僚の京大教授が数年前話してくれた。もと同僚にすれば教員などにかかわってほしくないのが大学生というものだという思い(思い込み?)があったからだという。
 しかし学生の学力低下、幼児化は今に始まったことではない。すでに明治30年(1897)年に夏目漱石が英語の学力について「中等及び高等学校を通して、共に学力低落したる実あり」と講演した(「夏目教授の講演」)。漱石の発言はとても興味深いので引用してみると、学力が低落した原因として彼が挙げているのは

第一、諸学科修習の年限減少したるが故、従て其主要部分を占め居りし英語修習年限、減少したること、第二、一週日中、之に用ふべき時間、減少したること、第三、諸学科を研究するに、原書を用ふること少きが故に、英語修習に就き接触物を減少したること、第四、外国語習得上、主力の配分されたること、是高等学校に於ける主要なる原因なり、(p38)

 原因の第一、第二などは、いまのゆとり教育の問題点として指摘されることと変わるところがない。漱石のエピソードを紹介した蓮實重彦(当時東京大学総長)によるなら、その後も例えば三木清によって大学生の知能低下が昭和10年代に嘆かれたらしい(『私が大学について知っている二、三の事柄』p189)。つまり100年以上前から学生の学力低下は問題として嘆かれ続けていたのである。昔から大学に入ったのは何かの間違いとしかいえないような学力のない学生はいたのであり、学力低下が100年以上続いたにもかかわらず、優秀な学生は変わらず出現してきたのである。また私が学生だった昭和50年代前半にも、最近の学生は幼いと言われたものだ。
 にもかかわらず他者としての学生が近年にわかに視界に出現したかに見えるのは、ゆとり教育の弊害のおそれから、学生の学力への関心がいっそう高まったり、FDによる学生へのサーヴィスが教員に求められているからである。それ以前は、学生に知識と学習意欲を授けるという点で授業がうまく機能していない事態はあったが、「勉強は自分でするのが当たり前」という神話のもとに授業改善が教員にとりわけ要求されなかったのでさほど問題ではなかったというにすぎない。蓮實重彦の言葉を使うなら、学力低下や幼児化は「にせの問題」といえよう(『蓮實養老縦横無尽』p41)。
 それに気づいているにもかかわらず、学生はやはり他者だという実感は変わらずありつづける。例えばそれは、学力不足でもなく異常性愛者でもない女子学生たちが、「腐女子」(BLを描いたコミックを愛読するだけでなく、コミックや小説の登場人物の男性をゲイと見立てて他の登場人物の男性と恋愛に陥るストーリーを妄想し、ときには自分でそのようなコミックを描き発表する女子)談義で盛り上がるのを見聞きすると、彼女たちをやはり他者だと思わずにはいられない。
 しかし何故彼女たちを他者だと思うのかを批判的に反省してみると、学生の学力低落を嘆いた漱石に共通する「心性」があることに気づく。自分がもはや若者と呼べる世代ではなくなったとき、自分より若い世代を自分とは異質の存在と見なして「今時の若い者は」と眉をひそめる態度がそこにある。世代別原理あるいは世代区分に基づく序列関係(年長者/若者=有識/無知=経験/未熟)で事態を処理して納得してしまう「心性」を、自分も加齢とともにいつのまにか身につけていたのではないだろうか。
 かつてないと思われる社会内部の他者の出現に対して、かねてから使い古された定型句で対処して他者に否定的評価を下す。下された側もやがて加齢とともに同じ事態に遭遇すると、かつて自らが受けた評価を新たな世代に下す側に回る。
 漱石が嘆いた背景には、彼が「朝から晩まで英語漬けにあった」大学予備門がなくなり各地に旧制中学・高校がつくられたという教育制度の改革がある。センター試験(共通一次)以前に国立大学が一期校・二期校にわけられていた時代につめこみ教育をされた世代にとって、その対極にあるように見えるゆとり教育という教育制度の改革(改悪)が現在ある。制度の改変に伴い、世代別原理は繰り返し現れることになるといえるのではないか。世代別原理は、100年以上前から繰り返される、改革と進歩を是とする「熱い社会」の「伝統」なのである。
 しかし急いで付け加えなければならないが、世代別原理は単純にライフサイクルに合わせて繰り返し出現するだけではなく、社会の統治性(gouvernementalité)と深く関わっていることを忘れてはならない。学生の学力や精神衛生などに対する教員の関心は、フーコー的な表現を使うなら、学生の知識や行為を監視することを要求する「権力」があるからである。この権力によって教員は、学生の状態に絶えずとは言えないまでも頻繁に気を配り、学力が劣ったり、精神的に病んでいる学生の魂を「導く」(conduit)つまり統治することが求められているのである(フーコー『安全・領土・人口』)。
 しかも教員自身も、彼/女が統治すべき学生によって統治される(対抗導き contre conduit)こともある。教員の導きがいかに良心的・効果的ですぐれていたかどうか、学生による授業評価アンケートや大学に対する満足度調査で明らかにされるからである。教員も評価されるのだ。授業の進め方や指導の仕方について、学生から問題点を指摘されれば、すみやかな改善に乗り出すべきことが期待されている。[しかし言い訳ではなく、現実にはことはそう簡単にいかない。パワーポイントを使ってわかりやすく説明しても、授業の総合満足度は低いことがあったり、視聴覚資料が多くてよかったという評価がある一方視聴覚資料が少なかったと不満をいう意見もあって、どうすればいいか迷うことがしばしばだからだ。]
 ここからわかるように教師が学生を見ているように、学生も教師を見ている。それぞれの眼差しは、対称的とは限らない。やがては「今時の若い者は」と口にするかもしれない学生も、今は、上の世代に批判的な眼差しを向けていることもある。だとしたら、この逆方向の世代別原理の働き方にも配慮しなくてはならないだろう。
 これが、私にとって、学生にむきあう世界で、学生について学生とともに研究するということの一つのあらわれである。単にそれは、メルロ=ポンティの現象学を再現することではない。
 では、こうしたインゴルドとは異なる立場から学生とともに考えることで、本日のテーマに寄与できることがあるとすれば何だろうか。
 ある生活世界もしくは環境にいる人たちが、自らの周囲の人々を他者つまり理解しがたいとか見慣れぬ不気味な存在と感じるのはどのような場合なのかに注目すれば、その社会に繰り返し出現する「心性」(さらには不気味な存在がこちら側に向ける眼差し)に接近できるのではないか。最後にこの点について事例を紹介してみたい。

オジブワの存在論

 インゴルドはハローウェルのオジブワの研究を好んで引用しているが、北米先住民オジブワが、あらゆる類いの人間関係に用心しており疑り深いとハローウェルは述べている。あるオジブワ人から彼は、すべてをその外見で判断してはならないと注意されている。人や物を含めオジブワが生きる生活環境は見かけ通りではなく、人を欺くおそれが十分にあるのだ。この疑り深さや用心深さを突き詰めていくとオジブワの人格概念と変身信仰に行き当たる。
 人間だけが人格的存在(persons)ではないとオジブワは考えている。動物や石、太陽や風、カミナリ鳥(thunderbird)のような神話上の存在にも人格は備わるのである。ハローウェルは、それらを人間外的人格存在(other-than-humanpersons、以下OTHP)と呼ぶ。カミナリ鳥は、思春期の断食のとき男性がヴィジョンで遭遇すると言われるが、鳥の姿で現われる場合も人間の姿で現われる場合もある。儀礼のとき以外でも雷鳴がしたとき、それをカミナリ鳥の声として反応し人が話しかけてきたとき同様にカミナリ鳥が何を言ったか聞き取ろうとする。OTHPと人間との間には社会的関係が存在するのである。人間のまえに現れるとき、OTHPはしばしば動物に変身することがある。変身しなくとも、動物に対して人格を持つ存在としてオジブワは交渉する。春冬眠から醒めた熊に穴から出てきてしとめられるように呼びかけるとき、「人として」遇さなくてはならず、食糧として殺すことを謝罪しなくてはならない。熊は人間の言うことがわかるのである。つまり熊とは、クマ科の属性をもつが人としての属性ももつ、生命ある存在なのである。
 こうしたOTHPと人間の共通性は、変身できるということである。人間の魂は、生者であれ死者であれ、動物の姿をして身体を離れることがある。体は小屋にあるのに、魂は動物の姿をして他の人間のまえに現れる。知覚しているのは熊であるが、それがいついかなるときも熊であるとは限らない。あるときは熊の姿をした人間かもしれないのである。また様々な動物種のマスターであるOTHPも変身能力をもつ。ヘビだと思っていた物が、実は強力な力をもつヘビのマスターだということもある。だからこそ外見で判断してはならないとハローウェルは注意されたのである。そして危険なのは強力なOTHPや邪術師と遭遇することである。
 邪術師(sorcerer)は、熊、狼、狐、ミミズク、コウモリ、蛇などに変身して邪悪な活動をするという。無害な動物が邪悪な意図を持つ人間の変身した姿だという場合もあるのだ。[例えば、病気になっていろいろな薬を試しても効かない男が、邪術を疑い出したところ、毎晩暗くなってからキャンプの近くに熊がくるのに気づくようになった(普通野生動物は人間の住んでいるところには近づかない)。そこである晩戸外に出て何をしようとしているか知っているぞと熊に向かって叫んだ。邪術師に報復を仄めかしたのである。以後熊が近づくことはなくなった。]
 出来事には必ず人格的存在の介入があるとオジブワは考える。1940年に発生した大規模な森林火災も自然発生ではなく、ドイツ人スパイの関与が信憑性ある説明として流布したという。
 このように外見を信用せず、絶えず疑り深く注意する態度、つまり周囲の世界をなじみあるもの、自明なものとして受け止めないというオジブワの態度を考察することが、オジブワの人格概念の核心に迫る途だと言えるのではないだろうか。

おわりに

現代日本の研究室と20世紀前半のオジブワの事例は完全に同じではない。誤解を恐れずに言えば、一方は「熱い社会」に出現し、もう一方は「冷たい社会」の例である。オジブワが遭遇する邪術師もOTHPもある意味ではなじみのある存在である。しかし、そうした存在が彼らの周囲の世界を見慣れないものに変える。同様に教室に学生がいる光景は教員にとってありきたりの光景である。しかしある日彼らは見慣れない存在に変わることがある。学生にとっても日頃接する教師が理解不能ないかがわしい者と化すこともあるだろう。なじみのものがなじみでなくなる時に人々が遭遇する体験をつきつめて考えてみることは、決して無意味なことではない。

文献
エヴァンズ=プリチャード、E.E. 1970「社会人類学、過去と現在」エヴァンズ=プリチャード他著『人類学入門』 (吉田禎吾訳) 弘文堂
ギブソン、J.J. 1985 『生態学的視覚論』 (古崎他訳) サイエンス社 夏目漱石 2004 「夏目教授の講演」『漱石全集補遺』 岩波書店 蓮實重彦 2001 『私が大学について知っている二、三の事柄』 東京大学出版会 蓮實重彦+養老孟司2002 『蓮實養老縦横無尽』 哲学書房

研究室で教室の他者を考える:インゴルドのラドクリフ=ブラウン講演を手がかりに 出口顯
フーコー、M. 2007 『安全・領土・人口』 (高桑和己訳) 筑摩書房 ベイトソン、G. 1987 「形式、実体、差異」 『精神の生態学 下』 (佐伯・佐藤・高橋訳)
思索社 メルロ=ポンティ 1966 『眼と精神』 (滝浦静雄・木田元訳) みすず書房 ラドクリフ=ブラウン、A.R. 1975 『未開社会における構造と機能』 (青柳まちこ訳) 新泉社
リーチ、E. 1974「人類学再考」『人類学再考』(青木保・井上兼行訳)思索社

Bloch, M. 2005 'Where Did Anthropology Go?' in Essays on Cultural Transmission, Berg
Hallowell 1960 Ojibwa Ontology, in Culture in History (ed.) S. Diamond, Columbia University Press
Ingold, T. 2007 Earth, sky, wind, and weather JRAI(n.s.),S19-S38
2008 Anthropology is Not Ethnography, Proceedings of the British Academy,
154: 69-92

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